タイポロジー的推し語り
「タイポロジーで推しの系譜を語れるんじゃないか」という美術ヲタを拗らせに拗らせた発想のもと、ここにその記録を残す。
タイポロジーとは類型学のことで、物事を分類→その結果を考察するという方法論を指す。
学生時代の恩師曰く、この考え方を美術に用いて旧約聖書と新約聖書の内容について考察することが、中世美術理解にとってとても大事とのことで。
例えば、旧約聖書のアダムと新約聖書のイエス・キリストに関係性を見出すみたいな。この2人の要素を比較して、アダムの後にPDCA回して(めちゃくちゃ乱暴表現)色々成し遂げたのがイエスだって考えたら、ストーリーとしてはビジネスモードでも美術ヲタモードでも理解できるな、って個人的には思っている。
※ちなみに、あくまでも新旧どちらが偉いとかって話ではなく、ストーリーとして繋がってることに意味を見出しているのであしからず。
そんなタイポロジー概念を、私の「なんでも掛け算にしちゃうヲタ思考」と「比較考察大好き美術史思考」を組み合わせて、ど本命と最近ハマった推しの比較を展開できればと思う。
タイポロジーの比較対象となる2人を紹介しよう。
1人目はPlastic Treeのボーカル、有村竜太朗(@Pla_ryutaro)である。 芸歴が長いこともありその経歴は書ききれないので、リンク先を参照して頂ければ幸い至極。
※画像は有村竜太朗のアクリルチャーム(筆者撮影)
そして2人目は音楽原作キャラクターラッププロジェクト・ヒプノシスマイク(@hypnosismic)の四十物十四だ。Bad Ass Temple の二番手を務めるキャラクターである。
※画像は著者撮影 @タワーレコード名古屋パルコ店
パッと見でというかカテゴライズ的にまず言えることとして、両者はビジュアル系バンドマンである。
前髪で隠した右目、黒マニキュア、大ぶりなアクセサリー等々、身なりでの自己表現の仕方でいえばいわゆるV系として位置づけられる。
このV系バンドマン、すなわち麺として両者を比較するにあたり、若手バンドマン四十物はベテラン有村の変遷に近いところを辿っていると私は考える。
いわゆるV系バンドマンあるあるなのだけれど、本人だったりバンドだったりが表舞台に長いこといると
デビュー時に無理して世界観構築系になる
→すっぴんロックバンドに路線変更
→アラフォーになって再度世界観重視の美魔女目指す
っていうコテコテ王道パターンなるものがありまして。
個人的には有村はこの美魔女ルートに見事乗り、
四十物はまだ10代ってこともあって王道ルート初手に手を出し始めたところである、と考える。
したがって、彼らは予定説とまでは言わないものの、王道における年齢に応じた通過点に立っていると言えないだろうか。
さて、ここから更に両者の立ち位置、丘問題、仲間の存在、モチーフ等について熱く重く語りたいところではあるが、読者・筆者双方の負荷を考えて「月」への言及のみで終わらせていただきたい。
バンド結成25周年の人間と生まれて1年弱のキャラクターを比較するにあたって、両者にとっての月に対する解釈はタイポロジーで扱うのにとても興味深いモチーフだと個人的に思う。
有村が多用する月は2000年前後と2010年前後で趣が変わる。前者の曲の1つである「まひるの月」では
まひるにでる 細く長い三日月の切っ先が
針のようにしずかにそっと僕に刺さってた
と表されるように、自分を傷つける鋭利なものとして三日月が使われる。この表現は別の曲「月世界」でも同様に登場する。
後者では遠くて手が届かないものの象徴とされる。「ムーンライト――――。」では形状ではなく出口や想い人を象徴する光として、「梟」では1番遠いものを想起させるものとしてそれぞれ月は登場する。
しかし、本人のギター「夜想」やピック等に表現されるように、有村にとっての月は三日月であり、星とセットになる存在であるのだ。ここは重要な軸を変えないことで愛されている有村らしさと言えよう。
よって、有村は月=三日月であることをブレさせないものの、月を加害者ではなく思いを寄せる対象へと認識をシフトさせている。
一方で、四十物の月はMCネームにちなんだ宵待月、すなわち満月手前のスポットライトみたいな明るい月である。(ソロ曲参照)
ただし、その月は四十物が過去を思って泣いている時のみ役割を果たす。1番と2番のサビでは
暗がり 照らす月明かり
マイク手に取り
さぁ行こうかアマンダ
明日のその先 光が待つこと信じて
不退転の心抱いて
塞ぎ込むようなことばかり
けど立ち上がり
さぁ行こうかアマンダ
握る拳力強く 涙拭き
Never Never Never Never Give up, Give up
となっているが、ラストサビになると
もう涙は零さないように
星眺め笑って行こうかアマンダ
明日のその先 光が待つこと信じて
不退転の心抱いて
塞ぎ込むような日に立ち向かい
つらい日も乗り越え行こうかアマンダ
握る拳力強く 明日へ向け
Never Never Never Never Give up, Give up
に変化するのだ。すなわち、1番と2番では泣きながら月明かりのもと歩みを進めているのに対し、ラストサビでは同じく未来への泣かずに明日へ向かっているのである。
これは四十物がスポットライト=月光の力を借りていた陰の世界の存在から、宵待月そのものとして夜空を闇ではなく星々が輝く空間と捉えられるまでに成長したことを表しているのではないだろうか。
また、有村と四十物それぞれの月に対する変化を見ていくと、2010年代の有村とソロ曲前半の四十物の月で光=照らしてくれる遠いものという扱いで重なる。
よって、この重なった部分により、有村に攻撃を加える存在であった三日月が宵待月=四十物十四そのものへとメタモルフォーゼを遂げたと見ることができる。
以上、乱暴ではあるものの、タイポロジーを駆使して有村と四十物という推しについて語ることができた。
カテゴライズに着目すれば四十物が有村の通っている道を辿っているとみなせるし、月という観点では有村が培ったものを経て四十物が宵待月へと変化したとみなせる。
まだこの推しをタイポロジーで語るという挑戦は始めたばかりであり、まだ残っている要素について割愛してしまったところもあるため。できる範囲で文字に残していければと思う。
冒頭でも述べたが、これはあくまで有村竜太朗と四十物十四にまつわるものがリンクしているのではないかという問いに対する考察であり、優劣論ではない。
筆者にとって2人を好きでいる理由を言語化しているに過ぎないが、2者を並立して推している理由を自問自答する手段の1つがこのタイポロジー利用である。
ゆえに、意図せず優劣論に発展していかないよう細心の注意は継続してはらっていきたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?