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(私見)マルトリとモンスター・スタディって同じやんの巻(これ、いま流行りの、マルトリートメントじゃないっすか⁉ 23)

どうも、こんにちは。ゴンベーでございます。
 
久しぶりの更新でございます。
 
なにしろ、過去の虐待・マルトリ体験を語る文章なんてのは、
フラッシュバックと戦いながら書くものでございますんで、
書きかけの記事は大量にあるんですけれども、なかなか
仕上がらないのでございます。
 
いやはや~。きっついっすわ~。
 
そんでも、この文章が、だれかに届くかもしれない。
 
だれかがこれを読んで、
「自分が子どもにしていることはマルトリ―トメントなんじゃないか」
と、気づいてくれるかもしれない。
 
どこかの子どもが、今までより少しマシな毎日を
過ごせるようになるかもしれない。
 
どこかの子どもの、今まさに潰されようとしている人生が、
この文章によってほんの少しでも救われるかもしれない。
 
そうと信じて、今日も必死に書いております。
 
さてさて、本題です。
みなさま、モンスター・スタディってのを聞いたことがおありでしょうか。
 
つい先日、NHKのBSチャンネルでやってたんですけどね。
1939年、アイオワ大学の学者が行った、とんでもねー実験でござんす。
 
ざっくり言いますと、この学者氏は、
「子どもは『吃音だ』と指摘されるから吃音になる」と。
そんな説を唱えました。診断起因説、てやつです。
 
つまり、子どもは幼いうちは、まだうまくしゃべれない。
多少詰まったり、単語を繰り返しても、それは普通のことなんだけれども、
親をはじめとした周りの大人たちが、「吃音だ」と問題視してしまう。
 
で、周りの大人たちが、子どもに「吃音だ」と指摘し、矯正しようとすることで、
子どもは吃音になってしまう、と。
 
そういう説なんですが。
 
何がとんでもねーかって、この学者氏は、
自説を証明すべく、実験を行ったんですわ。
孤児院の子どもを使って。
 
孤児院の子どもたち22人を2グループに分けての実験なのですが、
実験の詳細については他に譲るとしまして。
 
問題になったのは、
発話に何の問題もない子どもたちが、ちょっとでも、
どもったり詰まったりしようものなら、
「あなたは吃音だ。なおさなければならない」と、
指摘し続けた、という部分です。
 
何の問題もない子どもたちに、
「あなたは吃音だ」と、指摘・矯正をし続けたのです。
 
孤児院の職員さんたちに、そうするようにと指導したんですね。
職員さんたちは、実験目的を知らされず、治療だと思って
指導に従っていたというんですから、全くやりきれない話っすね。
 
しかも、実験内容について何も知らされなかった孤児院は、
実験自体が終了した後もずっと、その指摘を続けていたそうです。
 
さて、結果として。
この実験により、周囲の大人による指摘が、子どもを吃音にするという説は、
正しさが証明されませんでした。
 
大人が指摘し続けても、子どもは吃音にはならなかった。
そういう実験結果が出たのです。
(子どもたちにテストを行い数値を出して、実験前と後で比較してます。)
 
実験は失敗です。
 
ですが。
 
ここからが大事。
 
この実験の対象とされた子どもたちは、その後、
何十年もトラウマに苦しむことになったのです。
 
考えてみてください。
 
何かしゃべろうとしても、
ちょっとでもスムーズにしゃべれなかったら、
「吃音だ」「なおさなければならない」と、
大人からダメ出しをくらいつづけるんです。
 
「ああ、自分はしゃべり方がおかしいんだ」
子どもたちがそう思いこむのは、あたりまえ。
そのように「洗脳されてしまう」とも言えるでしょう。
 
実際には、何も問題はないのに、です。
 
ダメ出しを食らいつづけた子どもたちは、だんだんと、
しゃべらなくなったそうです。
 
話すことに、恐怖をおぼえるようになったのです。
 
話したくても、話せばまたダメ出しを食らう。
何度いわれても「吃音」をなおせない自分を責めてしまったり、
自分を恥じてしまうことは、想像にかたくありません。
 
単に話せなくなる、のみならず、この実験は、
子どもたちから、自尊心・自分自身への肯定感を
うばったのです。
 
被験者とされた子どもたちは、NHKの番組の放送時には、
すでに老齢です。
 
ですが、いまだに恐怖が消えないのだそうです。
 
何の問題もない子どもたちが、大人たちの根拠のないダメ出しによって、
一生のトラウマを背負わされ、自分を責め苛みながら生きてきたのです。
 
被害にあわれた方々には、何と申し上げてよいか、言葉もありません。
ただただ、胸が締め付けられるばかりです。
 
ところで。
 
あれ……
これって、何かに似てる……
というか、この問題って、吃音に限らないのでは……?
 
そう。これは……
子どもに対する、虐待・マルトリートメントと、構図が同じ。
(というか、この実験が、虐待そのものだと思うんですが。)
 
以前の記事にも書きましたが、ゴンベーは、「親」たちから、
日常的に自分自身と自分の周囲のすべてを否定されてきました。
 
そうですねぇ、この実験に近いものだと……。
「字が汚い」「字がうすいと言ってるのに、何度言っても直さない」
「親の言うことをきかない頑固者だ」などと、「母親」に常になじられ、
担任や周りの大人たちに言いふらされてました。
 
大人になってから分かったんですが、ゴンベー、筆圧が弱かったんです。
 
筆圧が弱くて、濃い文字が書けないのに、字を書くたびに「薄い」と
叱られるものですから、無理やり力を入れながら書きます。
やってみると分かりますが、無理に力を入れて文字を書こうとすると、
うまくコントロールがきかなくて、バランスがとれません。
そうすると今度は「字が汚い」と言われるわけです。
 
子どもの身では、「筆圧」という概念すら知らず、
どんなに一生懸命、力を入れてなおかつ綺麗に
書こうとしてもうまくいかず、ただただ、
なじられて身を小さくするばかりでした。
 
ゴンベーには、何の問題もなかった……
ただ、体の特性上、濃い文字が書けないだけだった……
 
そうと知った今でも、文字を書くのが苦手です。
他人に、自分の文字を見せるのがいやです。
ゴンベーにとって、他人に文字を見せることは、
文字も満足に書けないダメな自分をさらすこと。
「親」のいうことを聞かない嫌なやつの自分を、
他人にも自分にも責められ、自己嫌悪に陥る作業なのです。
 
もっと深刻なものだと、例えば、
「あなたのせいで、離婚できない」
「あなたのせいで、毎日家事をやらされている」
 
毎日毎日、そう言われ続ける子どもがいます。
 
でも、それ、子どもの問題ですか?
子どもに何か問題がありますか?
 
子どもは、ただ生まれてきただけでしょう?
ただ、存在しているだけでしょう?
 
しかも、その子を存在させたのは、
その子を責めたてている本人たちですよ。
 
ですが、子どもはこう思います。
「自分の存在がおかしいんだ」
「自分なんか、ほんとは存在しちゃいけないんだ」
 
自分の存在そのものを、自分自身が責め苛むようになります。
 
ゴンベーは、他者と関わることに恐怖を感じます。
また、責められるから。
また、「お前のせいで周りが不幸なんだ」って、
また、「お前が生まれたせいで、お前がいるせいで」って、
責められるから。
 
責められること自体よりも、
自分のせいで、相手を不幸・不機嫌にしてしまうことに、
たまらない恐怖を感じるのです。
 
自分なんかが存在しているせいで、相手の目の前にいるせいで、
相手を不快にさせてしまう。
 
だけど、これ、どうやったって、どうにもなりません。
だって、相手の不機嫌は、相手の問題なんです。
自分の存在は、関係ないんです。本当は。
 
今だからこそ断言できますが、ゴンベーがこの世にいなくたって、
「親」は離婚なんかしなかったし、「母親」は家事をしていたし、
Z家は機能不全家庭のままでしたよ、まちがいなく。
ただ、ゴンベーが負わされていた「家庭のゴミ箱」としての役割を、
他のだれか、あるいは何かが、負わされるだけです。
 
頭でそうと分かったところで、幼いころにつけられた傷は、
消えやしないのが、困りもんですが。
 
モンスター・スタディにおいて、問題があったのは、
子どもではなく、子どもを恣意的な実験に使った大人たちのほうでした。
 
子どもを最低限、生きものとして見ていたなら、
心や脳を持ち、傷ついたり苦しんだりする、
そんな生きものとして見ていたなら、
こんな実験は到底できなかったはず。
 
同じことが、虐待・マルトリートメントにも言えます。
怒鳴り散らして罵倒したり、暴力をふるったり。
そんなことは、到底できないはずなんですよ。
 
問題は、幼い子どもを、生きものだと思っていない、大人たちにあるんです。
 
だけど、そうとは知らない子どもたちは、自分を責めます。
子どもは、恐怖と罪悪感、自己否定感に支配された人生を
送るハメになるんです。
 
モンスター・スタディは、実験として行われたため、
記録も残っていましたし、当時の被験者たちのその後を
追うこともできたのだと思います。
 
でも、その辺の、見た目にはごくごく普通の家庭の中で、
大人たちから一挙手一投足にダメ出しを食らいつづける子どもは、
だれにも認識してもらえません。
 
その心に、どれほどの傷がつけられているのか、追跡調査も
してもらえません。
 
幼い時分に、生きものとして扱われなかった。
その結果を、子どもが一人で背負わされて、生きなきゃならないんです。
 
とんでもねー話っすよ。
 
こんな目にあう子どもが、こんな風に生きなきゃならない子どもが、
一人でも減ればいい。
この文章が、そのきっかけの一つになれれば、と。
そう願うばかりです。
 
今回もお付き合いいただき、ありがとうございました。

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