"つけまつける"の歌詞に隠された真実
違和感の正体
まずはこちらをご覧ください。
これはきゃりーぱみゅぱみゅ(KPP)が2012年に発表した楽曲「つけまつける」の歌詞である。
どうだろう、何か違和感を感じないだろうか?
何も違和感を感じなかったというあなた、
かくいう私もこの10年間は見過ごしていたのでご安心を。
私が今になって感じた違和感の正体、それは
「とぅ Came up とぅ Came up」だけやけに浮いてないか
ということだ。
Came up(ケィムアップ)には「やって来た」や「上った」「近づいた」などの意味がある。
しかしそのどれもが「つけまつける」と言う行為に全く関係のない意味である。普通に作詞するならここは「つけまつけま」と繰り返しても良いものをなぜわざわざ「とぅ Came up とぅ Came up」にしたのだろうか。何か意図があるとしか思えない。
ではこの曲を作った中田ヤスタカ氏は一体どんな思いをこの歌詞に込めていたのだろうか。そのあたりを今回、本腰を入れて考察していこうと思う。
ちなみに私は普段、中田ヤスタカ氏のことを"音楽家"ではなく、敬意を込めて"音圧家"と呼んでいる。理由は、シャッフルで再生してる時に彼の曲が流れたことがある人なら理解るだろう。
歌詞の世界観とMVとのギャップ
まず曲の世界観を把握するために曲のMVを確認してみよう。
どアタマからいきなり仮面をつけ、杖をもった魔女のような人物(KPP)、そして2頭の踊る獅子が登場する。どう見てもこの世のものとは思えない不気味な世界観である。曲調的にはもっと明るいイメージがあるが、背景は全体的にどんよりと薄暗く、要所要所で深い赤や紫といった色が使われている。自然界ではこのような色を持つ植物には毒があることが多い。
曲の後半になると背景が変わり、大きな目の化け物のようなものが登場する。これはアメリカ通貨などにもデザインされている"プロビデンスの目"ではないだろうか。"プロビデンスの目"とは目が描かれたキリスト教における意匠であり。「人間の行いは全て神に見通されている」ということを表しているのではないかと言われている。
最終的にその大きな目は禍々しい手となり、中央には大きな目の書かれた聖書のような分厚い書物が開かれ、空は闇に包まれ、枯れ果てた荒野のような世界が広がる。KPPは笑顔だが、私にはこれから神の裁きが始まるかのようにも見える。
そして私はこのMVを観て、あることに気づいたのだ。
元々「つけまつける」という歌詞ではなかった
実はこの違和感について考え始めて数分が経った頃、突如私の脳裏にある言葉が浮かんでいた。それは
"Two came up to hell"
という言葉だった。
"つけまつける"と"Two came up to hell(トゥケイムアップトゥヘル)"、歌のようにリズミカルに発音してみると、音感がとてもよく似ていることが分かる。
もしかして元々この部分は「つけまつける」と言う歌詞ではなく、本来は「Two came up to hell」であり、「とぅ Came up とぅ Came up」という表記は中田氏が我々に本来の歌詞に気づいてもらうための仕掛けだったのではないだろうか。
Google翻訳でその意味を調べてみる。
「二人は地獄にやってきた」
…あまりにも「つけまつける」とはかけ離れた意味である。
そう聞こえるってだけで、空耳アワーみたいなもんだろう。
と、その時は思っていたが、この曲のMVを観た結果、その疑いは確信に変わっていった。
このMVを「二人は地獄にやってきた」という前提で見てみると、その不気味な世界観がどこかしっくりとハマりだすのである。
この曲は女の子がおしゃれをするという曲ではない
では「二人は地獄にやってきた」の世界観で1番の歌詞を見てみよう。
まず、「いーないーな それいいなー」は人間の尽きることのない他者への羨望を表している。
他人を羨んでも良いことなどないのだが、人間とは愚かなものである。
他者を羨んでばかりの人間は自分の持っていないものを欲する。そして、いずれはそれを奪い取りたいと考えるようになる。
この二人がなぜ地獄に来たのかは分からないが、そういう欲深さが原因であった可能性が高いだろう。
「ぱっちりぱっちり それいいな」の”ぱっちり”は目が大きいと言う意味ではない。この世界観での”パッ散り”は、パッと人の命が散る様を表している。”パッ散り”が二回、つまり二人の命が散っている。この二人がおそらく地獄へやってきた二人だろう。しかし、命が散ったにも関わらず「それいいな」と言われるほど憎まれていたのだろうか。
そう考えると二巡目の「いーないーな それいいなー」は「いーな、いーな」ではなく「居ないな」と捉えることができる。二人は地獄に行き現世にはいなくなった。そして、それで良かったのだと人々は思っている。
「気分も上を向く」は一見ポジティブな表現にも見えるが、これは二人を地獄へ見送った人々の目線であると考えると恐ろしい。
続きの歌詞を見ていこう
「ちゅるちゅるちゅるちゅるちゅ」はおそらくこの曲の中でもっとも意味不明な歌詞だろう。たしかに「つけまつける」の世界観で歌詞を読んでいてはなんのことかさっぱり分からないが、「二人は地獄にやって来た」の世界観で読んでみると、状況は一変する。
そしてついに描かれる地獄の光景
「ちゅるちゅるちゅるちゅるちゅ…」は地獄の悪魔がやって来た人間達の生き血や体液をすする音で間違いないだろう。
もちろんそんな光景を目の当たりにした二人はとてつもない恐怖にかられ、地獄から逃げ出そうと必死に走る。だが悪魔は焦る様子もなく二人をゆっくりと追いかける。
二人がどれだけ必死に走っても、どれだけ遠く離れても、しばらくすると悪魔の影が追いかけてくる。このままでは埒が明かない。二人は隙を見て物陰に隠れ、悪魔が気づかず通り過ぎるのに賭けることにした。しかし、近づく悪魔の影の動きに迷いはない、悪魔はどうやら二人が物陰に隠れたことに気づいているようだ。何故バレたのか。二人にはもう、動けるだけの体力は残っていない。
その時、一人が自分の体に見慣れない虫のような何かがまとわりついていることに気づいた。よく見るとそれは虫ではなく浮遊する念のようなものだった。
そして遂に二人を捕まえた悪魔がその虫のような何かを指差して言うのである「つける(あとをつける、追跡する)タイプの魔法だよ」と。
二人は地獄で二度目の死を迎える。
現世での肉体はとうに失っているが、悪魔に地獄での体も食われ、魂だけの存在となって地獄を彷徨い続ける二人にもはや欲望も羨望もコンプレックスもない。そこには見た目も性別も何もない魂だけが存在する。魂だけの世界には争いなどない。学校も、試験も何もない。
「自信を身につけて 見える世界も変わるかな」
これは魂だけになった二人の安らかな心から溢れた言葉だろう。
これが1番のAメロの最後の歌詞である。
最初は地獄の不気味な空を見て恐怖を感じていた二人だが、魂だけの存在となった今は安らかな心で同じ空を眺めている様を表しているのだろう。
作詞者の真意とは
このように世界観を少し変えて考察しただけで、ここまで解釈が変わるのである。もちろん作詞の真意については、作詞者である音圧家、中田ヤスタカ氏にしか分からないだろう。
しかし、この世のものと思えない不気味な世界観がMVにも表れているあたり、当初の歌詞は公式の記載とは異なるものだったのではないだろうか。
MV制作はその方向性で進む中、あまりに不気味な内容にレコード会社からNGが出て手直しをした、しかしMVのセット(CG)はもう発注してしまっているのでこれで作らざるを得ないといった状況からこのようなMVが完成したのではないだろうか。
彼がこの曲を通して本当に伝えたかったのは、「つけまをつけて顔面盛れてアゲ↑」ということではなく、「欲を無くせば現世でも安らかな気持ちで暮らせる」ということだったのかもしれない。
私の考察はここまでとするが、意欲ある暇人がいたら是非2番以降の歌詞や他の曲の歌詞も考察してみてほしい。
同じ歌詞がどう見えるかは心の角度次第だから。
あとがき
今回私がこのような考察をするに至ったのは、ゴールデンウィーク明けにコ●ナに罹って尋常ではなく暇な隔離期間を過ごす中で、都市伝説系Youtuberやオカルト系Youtuber達のチャンネルにとても楽しませてもらったことが関係しているとかいないとか。
そして一説によるとそれにより五月の大半がお休みとなった私の来月の収入が大変なことになっているとかいないとか。
それでも貯金を切り崩せば十分生活できるのに、なぜ収入が減って辛いのかというと私に欲があるからで、欲がなければ例え地獄のような環境にいても平穏に暮らせるのだということを、この曲を通じて教えていただいたのだとかそうでないとか。
ひとつ確かなのは、夜中の3時までこんなものを書いてるくらいなら早く寝たほうが良いということだ。
最後にこれだけ言わせて欲しい。
胸元のそれは「つけちちげ」なのだろうか。
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