オックスフォード大学留学記(その2):出願から入学まで
さて、前回の投稿「サンスクリットとの出会い(オックスフォード留学・前編」で、サンスクリット語を本格的に学ぶためにイギリスの大学進学を目指す決断をしたと書いたが、今回はその後の経緯を回想してみよう。現実的な選択肢がエディンバラ大学しかなかったはずなのに、結果的にオックスフォードに進学した理由を綴る。私が大学に行ったのは30年近く前のことであるが、制度は今でも基本的に変わっていないから、その経緯はイギリスの、特にオックスフォード大学を目指したい人には少しは参考になるかもしれない。
日本の高校を卒業しただけでは、いくら成績が良くて偏差値が高くてもイギリスの大学に出願できない
イギリスの大学に入りたいといっても、制度上、日本の高校を卒業してもそのままイギリスの大学に出願することはできない。出願するには1年間ファウンデーションプログラムと呼ばれる入学準備コースのようなプログラムで学ぶ必要があった。(注:誤解を避けるために説明しておくが、イギリスでインターナショナル・ファウンデーション・プログラム(IFP)呼ばれるものは、通常、各大学が外国人向けに提供する予科コースである場合が多い。つまり、志望の大学のファウンデーションプログラムに入り、年度末の試験で一定の成績を修めるとエスカレーター式にその大学の学部課程に進学できるという制度である。だが、私は選んだのは、名前こそファウンデーションプログラムだが、実際にはカリキュラムも受ける試験も現地人が学校で受けるものとまったく同じという特徴のプログラムだった。つまり、特定の大学にそのまま進学できるという特典はないものの、逆に出願できる大学の選択肢が制限されないため、出願プロセスの窓口となるUCASというサービスを通じて、イギリス人とまったく同じ方法で出願し、審査を受けることができたのだ。)
大学選び
さて、当時イギリスでサンスクリット語を学部レベルで専攻することが可能だったのは、オックスフォード、ケンブリッジ、エディンバラ、SOAS(ロンドン大学東洋アフリカ学学院)の4つだけである。ちなみにUCASの出願フォームには志望コースの記入欄が5つあるので、イギリスでは5つまでの大学/コースに併願できる。しかし、オックスフォードとケンブリッジの併願は制度上認められていない。つまり、私の選択肢は3つしかなかった。そのうち、ケンブリッジではサンスクリットだけを専攻とすることはできず、もう一つの専攻と組み合わせるジョイント・ディグリーとしてしか提供されていなかった。それにオックスフォードと併願もできないから、この選択肢は捨てることにした。ちなみにSOASもジョイント・ディグリーしか提供していなかったが、もう選択肢が3つしか残っていなくて心細いから、これはそのまま出願することにした。オックスフォードは雲の上のような存在だが、ダメ元ということで、これもそのまま出願。つまり、私にとって事実上の選択肢はエディンバラだけだったのだ。
オックスフォードの出願プロセス
ファウンデーションプログラムのコースが始まったのが9月で、出願先にオックスフォードが含まれる場合のUCASへの願書提出期限は毎年10月15日だから、急いで準備を進めなければならなかった。幸い、当時のオックスフォードは学部ごとの「入試」がなかった。だが、代わりにエッセイのサンプルを2点提出しなければならなかった。私の場合、1つ目はマクロ経済のトピック、2つ目はNHS(国民医療サービス)の制度改革をトピックに選び、1週間くらいかけてエッセイを書き、採点してもらったものをそのままオックスフォードに提出した。参考文献もしっかり参照して引用したし、かなり時間をかけたので、我ながらそれなりの出来になっていたと思う。高校の留学時にエッセイを書く練習はある程度やったから、英語が足かせになることはなかったが、英語で教育を受けたことがない人だと、留学開始直後にいきなりこんな課題をこなすのは困難かもしれない。
無事エッセイを提出できたものの、相手はオックスフォードである。でもダメ元だと思っていたから、一次審査の結果を心配するどころか意識さえしていなかった。ところがある日、面接の招待状が届いたのである。かなりビックリした。
面接に呼ばれたら一次選考通過
オックスフォードでは、一次の書類選考で足切りされ、候補者数が定員の3倍くらいに絞られる。その候補者が、毎年12月の上旬から中旬にかけて面接に呼ばれる。ミケルマス学期が終了したすぐ後で、学部生はもう寮にいないので、遠くからはるばる面接に来た候補者は、出願したコレッジの寮に無料で泊めてくれる。(コロナ以前は、実際にオックスフォードで対面形式の面接が行われていた。今は100%オンラインで行われている。)
オックスフォードに出願する際には第一志望と第二志望のコレッジを指定することができる。私は30以上あるコレッジのことなど何も知らなかったし、当然在学生に知っている人もいなかったので、大学当局に割り当ててもらうオープンアプリケーションにした。だから、私が呼ばれたマンスフィールド・コレッジは、大学が割り当てたコレッジである。合格するには、志望学部とコレッジの両方から合格をもらわないといけない。私の場合、コレッジと学部で、別々に面接が行われた。
冷たいシャワーの洗礼
コレッジでは午後に面接があった。面接が行われた部屋や面接官のことは覚えているが、肝心の面接内容はほとんど覚えていない。そんなに緊張してはいなかったし、終わった後の手応えは、良くも悪くもなかった。このコレッジには東洋学部*に所属するフェローが1人しかおらず、ヘブライ語やアラビア語で神秘主義の研究をされている方だった。だからサンスクリットやインドに関する専門的な質問はされなかった。
*(Faculty of Oriental Studies、つまり、オキシデント(西洋)と対照したオリエント(東洋)、つまり西はエジプトから東は日本までを網羅する、古代から現代まで何でもそのエリアの研究を教える学部。ただし、原語で研究をやることが目的だから、この学部の学生には1年生から言語をたたきこまれる。シュメール語とかサンスクリット語みたいな古代語ではなく、アラビア語とか日本語とかトルコ語のように現代語をやっている学生は、その国の大学に1年間留学する。)
学部の面接は次の日に組まれていたので、コレッジで面接があった日は寮に泊めてもらった。マンスフィールド・コレッジの建物は19世紀にできたからそれほど古くはないが、外からだと建物の見栄えはいいが、12月になると砂岩の建物の中はめちゃくちゃ寒い。窓も同じ時代のものしか使えないから古くてガラスは薄くて隙間風が入ってくるし、お世辞にも快適といえる部屋ではなかった。それだけならなんとか凌げただろうが、なぜか何分待ってもシャワーから出てくるのはお湯ではなく冷たい水だった。ビクトリア朝のボーディングスクールでは冬でも冷たいシャワーを浴びせて心身を鍛えるというスパルタ式の規律を徹底していたらしいが(これって昔、上半身裸でやらされた乾布摩擦みたいなものだろうか)、それは噂じゃなくて本当のことなのか?もしかして、こういう大学って、そういう環境や習慣に慣れていない部外者をくじけさせるためにわざと意地悪してるんじゃないか、と本気で思ったくらいだ。
夕食の際に、香港の人と一緒になって、いろいろ話を交換した。「ねえ、俺の所、シャワーのお湯が出ないんだけど、君のところ、出た?」「僕の部屋は新しいEブロックだけど、出てたよ」「あ、そう。緊張した?どんなこと訊かれた?」みたいなやり取りだ。「じゃあ、お互い頑張ろうな」といって別れたが、彼とは翌年、寮の入居時に顔を合わせることになる。「おう、昨年面接で会ったね。お互い受かったんだ!しかも隣人だね!」と言って喜んだ。
学部での面接
次の日は、学部での面接だった。面接官は、「前編」でサンスクリット教本の編纂に携わったと書いてあったことを紹介した、あのゴンブリッチ教授と、第2版の謝辞ではハーヴァード大学助教授という肩書きだったが、この時はオックスフォード大学の講師になっていたベンソン博士、あと、記憶がおぼろげだが、もう一人、第二候補のコレッジの面接担当者が同席していたと思う(第二志望のコレッジはSt Anne'sだったから、日本学専門で平家物語などを研究されていたM博士だったかもしれない)。志望動機書に書いたちょっと大げさな(嘘という意味ではなくて、野心的な)記述について真っ先に問いただされ、うわ、あんなこと書くんじゃなかったと後悔したが何とか乗り切り、あとはサンスクリット語や古代インドに関する質問がなされた。
なぜサンスクリット語を学びたいのかという質問の後に、それに向けてこれまでどんな取り組みをしてきたのかについて訊かれたから、正直に「前編」で書いたような内容を説明したと思う。その会話で、高校の時に買って独学に使用していたTeach Yourself Sanskritが、実際に同大学の初級サンスクリット語講座で使用されているテキストだということがわかって嬉しかった。もう一通り読んで独学で試してみたけれど、たとえばアオリスト、未完了過去、完了などのさまざまな過去形の意味の違いや使い分けは独学では理解できず、先生なしにはこの言語は学べないと痛感した、みたいに具体的かつ率直な感想を述べることができた。今思えばこれが功を奏したのかもしれない。他の質問内容はもう忘れてしまった。
結果「待ち」
こうして実際にオックスフォードで2日を過ごし、寮に泊めてもらってホールで食事をして街中を歩いて雰囲気を感じ取ることができ、とても有意義な時間を過ごせたと思う。面接を終えて帰ってきた私は、相変わらずダメ元だと思っていたから、「オックスフォードであんな貴重な体験ができて凄くラッキーだったな〜。将来、孫ができたりしたら、こういうエピソードとか語れるんだろうなあ」などと暢気なことを考える程度で、それ以外は何事もなかったかのようにまた普段の生活に戻っていた。実は、面接があった直後に現地の彼女ができ(今の妻)、気分がお花畑状態だったから、正直言って進学先のことなんて念頭になかったのだ。
そうして年が明けた1月中旬のある日、オックスフォードから手紙が届いた。透かしの入った立派なレターヘッド付きの紙に書かれた合否通知で、コレッジで面接官を務めたマディマン博士からだった。結果は条件付き合格。予期していなかったから、「え、マジっすか?本当に俺でもいいの?」みたいに拍子抜けだった。条件付きというのは、通知されたのは1月だけれども、合格条件となる肝心の試験は5月に行われるので、その試験ですべての教科でAのグレード(最高のグレード)を取れば入学できるという意味である。
ちなみにその後、エディンバラ大学とSOASからもオファーをもらえた。すべての出願先からの合否が出揃ったら、第一志望(firm choice)と滑り止め(insurance choice)を決めなければならないが、私は想定外のラッキーな展開になったので、当然オックスフォードを第一志望にした。
その後の取り組み(=試験勉強)
さすがにこの時点で目標が具体化したため、勉強にスイッチが入ったと思う。面接を経て条件付きオファーをもらうと、もう倍率とか難易度みたいな他の候補者との競争は一切気にしなくて済むので(もともと意識さえしてなかったくせに)、自力で全教科で必要なグレード(オールA)さえ取れば実現できる、つまりすべては自分の力にかかっていると考えられるようになった。(この国のグレード配分は、点数の絶対値によって決まるのではなく、全国共通試験なので、当時は獲得点数で上位13%くらいになっていればAが与えられるというシステムになっていた。つまりそういう点数を取ればいいのである。)
その後の取り組みはただの試験勉強で、特筆に値することはないから省くが、結果的に全教科でAのグレードを取れたので、晴れて入学できる運びとなった。
1年前までは、自分も家族も、他の周囲の人も、大学進学も就職もせず高校を卒業してニートとして生活していた私にこんなことが起こるとは思ってもいなかっただろう。
中年男となった今振り返ってみた感想
結局、私はただ運が良かっただけなのだ。高校で留学して日本の高校カリキュラムの履修に巨大なギャップができたことも、高校留学前後を通してまったく一貫性のないめちゃくちゃな科目選択をして日本の大学を受験できる可能性をゼロにして担任を呆れさせたのも、結果的にはすべてプラスに働いた。そして何よりも、あの時日本橋の八重洲ブックセンターであのサンスクリットの本を買わなかったら、サンスクリットのサの字も知らないままだったろうし、妻と出会うことだってなかっただろう。当然努力はしっかりしたが、私は天才でも秀才でも優秀でさえもない。本当ならとうていオックスフォードに入れるような才能を持っていないこんな取り柄のない外国人を道端から拾ってくださったゴンブリッチ教授には感謝してもしきれない。
次回予告
この長文(駄文)に懲りずに、次回はオックスフォードでの学部教育の内容について書こうと思う。私を待ち受けるのは、一見猛スピードの履修ペースとチュートリアルの洗礼である。さらに読者が減りそうだが、べつにお金やアクセス数目当てで書いているわけではないし、公開するとはいえ自分の経験を文字にして残すことが主目的だから、いいだろう(ということにする)。