ポケモン対戦卒業論文
いつの日からか、ポケモン対戦をやめてしまった。
これといったきっかけがあったわけでも、特段の理由があるわけでもない。
ただ、気がついたら、Switchを起動しない日が続くようになっていた。
ポケモン対戦のゲーム性に限界を感じたわけではない。
レギュレーションや仕様にうんざりしたのでもない。
不条理なまでの運の悪さに立腹したわけでもない。
ただ、ただ、いつの間にか、ランクバトルに潜ることをしなくなっていっただけ。
簡単にまとめるなら、日常生活が忙しくなった、ということなのだろうと思う。
そういう話でよければ、どうぞご覧くださいませ。
さよなら、ランクマ。
正確なことは覚えていないけれど、おそらく昨年の12月からだったかと思う。
ニートから社会復帰して、アルバイトなのにほとんど店を任されて、仕事が忙しくなって、ランクマに潜っている時間もなくなった。
時々、無性にポケモン対戦をやりたくなることがあった。
貴重な休みの日に、ボックスのポケモンだけで突貫で構築を作って、3時間くらい潜る。
当然ながら、勝てない。そして、「もういいかな」と思い、また1ヶ月後までゲームをやらなくなる。
1ヶ月はやがて2ヶ月になり、2ヶ月はさらに3ヶ月になり、どんどんSwitchに触らないインターバルは伸びていった。
自分が潜らなくなっただけでなく、他の人の対戦動画も見なくなった。
というか、週1のアニポケの見逃し配信以外では、YouTube自体を視聴しなくなったので、必然的に対戦動画に触れる機会が失われた。
それでも、noteでおすすめに出てくる構築記事は読んだりしていた。
最近はこんなレギュレーションなんだ、へえ、このポケモンが流行りなんだ。
昨日も構築記事を読んで、今日、久しぶりに対戦をやってみた。
そして、「もうこれで、本当にポケモン対戦とはさよならかもしれないな」と思った。
自分の中で、ポケモン対戦への情熱の火が潰えた日だった。
ピンボールとしてのポケモン対戦
ガチ勢、とまでは行かないけど、かつては割と熱心にランクマに潜っていた。
就職して半年くらい経った時にポケモンに復帰して、対戦にまで手を伸ばすようになった。
仕事が終わって毎晩、5〜10試合くらい対戦するのが、当時の楽しみだった。
順位を目指したことはほとんどないけれど、毎月の義務マスボだけは3年くらい続けていたはずだ。
仕事をしながら構築を考えたり、暇があればポケ徹で技を調べたり、ダメージ計算ソフトを開いたりしていた。
先ほど、12月くらいからゲームをやらなくなったと書いたけど、実は9月からだったと思い出した。
9月に配信されたSVのDLCすらやらなくて、スグリとゼイユに会ったところで終わっていたはずだ。
そうか、ポケモンというゲームへの熱意を失って、もう1年が経つのか。
村上春樹の小説に『1973年のピンボール』というものがある。
主人公がヴィンテージもののレアなピンボール台を手に入れて、夜な夜なゲームに興じる話だ。
主人公は1年ほど取り憑かれたようにピンボールに熱中する。
しかし、古いピンボール台はやがて修理不可の状態に至り、ついに台を手放すことを決意する。
そうして、主人公とピンボールとの蜜月はひっそりと終わりを告げる。
私にとってのポケモン対戦は、ピンボールだったのだろうと思う。
孤独な20代前半の日々に、ポケモン対戦は仕事から解放された後の唯一の楽しみだった。
でも、今はもう、かつてのような熱意や興味はなくなってしまった。
ピンボール台を手放す時が来てしまったのだろう。
ポケモン対戦より大切なこと
ポケモン対戦よりもやりたいことができた、というのが、最終的な結論だと思う。
より手持ちのリソース(主に時間と思考力)を割くべきものができたので、ランクマの優先度が下がり、次第に心が離れたいったのだと。
結局のところ、私という人間は、勝負事や競争というものに、興味や関心が持てない、あるいは持続できない人間だった。
もちろん、ゲームで勝てば嬉しい。でも、じゃあそのために貴重な時間や労力をかけたいほどなのかと問うたときに、答えははっきりしていた。
「なんで、他人に勝つことに意志や知力を消費しないといけないんだ?」
私が本当に興味を持てるのは、思索や芸術の分野だった。
それは言うなれば、答えなき問いについて考えることだ。
他人との比較ではなく、自分自身の内面深くと向き合い、納得のいく答えを導き出すこと。
ポケモン対戦に限らず、順位づけとか、レートとか、勝ち負けとか、そういった数値によって他の人との差を図れるものには、それほど強い関心がない。
もちろん、人間だからゼロではないけれど、他に大事なものを犠牲にしてまで手に入れたいとは、まったく思えない。
ポケモン対戦はお子様の遊びだとか、ゲームは時間の無駄だとか、そういう話をしたいのではない。
私は人生のある時期でポケモン対戦に夢中になったことは事実であり、そのことを後悔しているわけでも、時間を空費したとも思ってはいない。
ポケモン対戦が、私が自分にとって本当にエネルギーを注ぎたいと思えるものに出会えるまで時間を繋いでくれたことに、感謝さえしている。
あくまで、私という人間にとって、競争や順位づけといったものがそれほど価値を持たなかった、ということ。
今のポケ活
対戦をやらなくなった、とは言っても、ポケモンから全く離れたわけではない。
ポケモンGOとポケモンスリープは毎日起動していて、特にスリープは毎日楽しくプレイしている。
ポケモンスリープはほとんど寝るだけのゲームなのだけど、というか、だからこそ続けられている。
毎朝起きて「新しい寝顔、こい」「今日は色違い、出ないかなあ」と、運試しみたいで楽しい。
何よりも、お気に入りのポケモンをじっくり時間をかけて育てるのが、案外ハマる要素だったりする。
対戦だったらドーピング薬を使ってすぐに終わるけど、無課金ポケスリはそういうわけにはいかない。
でも、かえってそこが良いというか、ゆっくりと時間をかけて育成していると、「ポケモンって、本来は生き物だもんな」と、妙に納得感が生まれてくるものだ。
ポケモンGOは、だいぶお座なりになってきてはいる。
毎日開いてはいるけれど、イベントもよほどめぼしいものでなければ、それほど時間はかけていない。
それでも、7月のfestでネクロズマの色違いが2匹もでた時は嬉しかった。
いつかの記事にも書いたけれど、ここがポケモンというコンテンツの良いところだ。
何気なく、ゆるっと、好きなポケモンに触れられること。
もしもポケモンが対戦に特化したゲームだったら、きっと私の人生は今頃、ポケモンとは平行な旅路を描いていただろうと思う。
フランスに行った時、スーパーで買い物をしようとしても、店員さんに全く言葉通じなかった。だんだん向こうもイライラしてきて、困ったなあと思った。
ところが、クレジットカードを入れていたイーブイのパスケースを出すと、店員さんが「イーブイ!キュート!」と言って、苛立った空気が和んだものだった。
そういうことが3回くらいあって、ポケモンってすごいんだなあと思った記憶がある。
新しい職場でも、自己紹介の時にわが嫁=グレイシアについて語ると、全然違う部署の人からも「ポケモンの人」で覚えてもらえて、おかげさまで今のところ人間関係が円滑に進んでいる。
行きつけのスタバでも、たまにフランスのスタバで買っタンブラーを持っていくと、「これも良いですけど、ポケモンじゃないと、なんとなく寂しいですね」と笑いながら言われたりする。
そういうわけで、ポケモン対戦を卒業した今でも、というか対戦以上に、私はポケモンにお世話になっている。