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だれの役にも立たない文章を書こうと思った
これからはだれの役にも立たない文章を書こうと思った。
有益な情報を英語では tips という。
と、高校時代に愛読していた英単語帳に書いてあったことを思い出した。
tips なんてなくていいや。
栄養のある文章でなくたっていいや。
ポテトチップスみたいな、ジャンキーな文章でいいや。
スクリャービンのピアノ・ソナタ3番嬰へ短調を聴きながらそう思った。
グレン・グールドによる演奏は右手と左手が別の生き物のようにそれぞれの音を生み出し旋律を紡ぐ。
部屋の明かりを消して、静寂を身に纏った暗がりの中で、ただ音楽とだけ向き合う純粋な時間が好きだ。
私はスクリャービンという人の曲を聴いたことがなかった。
ピアノの先生がコンサートで演奏するというので、Amazonでぽちる。
グールドといえばバッハ、次にハイドンとブラームス。
モーツィとベートーヴェンは曲によりけりで、シェーンベルクはよくわからない。
スクリャービンはいいと思った。難しいことはわからないけど、いい演奏なんだと私は思う。
同じCDに収録されているプロコフィエフのソナタは聴いただけで難しそうだとわかる。
「リヒテルの演奏会に行ったことがあるんですけど、すごかったですよ」
ピアノのレッスンは週に1回30分。
冒頭の10分は音楽についてのおしゃべりの時間。
残りの20分で大急ぎで曲を弾いて、最後もまたおしゃべりするから時間が押す(次のひとには申し訳ない)。
この日はグールドと園田高弘のベートーヴェンを聴き比べた感想から始まる。
日本人の演奏ってあんまり聴いたことなかったけど、筋肉質というか、とことん削ぎ落とされてる感じの音ですね。
グールドの方はもっと音が膨らむというか。脂身の少ない鳥のささみと霜降りたっぷりの牛肉みたいに違う味わいがする。
そういえばグールドとリヒテルの平均律って別の曲みたいで面白いですよ。
そんな話をしたら、リヒテルの生演奏を聴いたことがあるという話になって驚く。
「歳をとって暗譜ができなかったらしくて、ステージを暗くして弾いてました。まあ、私はそんなこと知らなくて後から友だちに聞いたんですけど」
「プロコフィエフを弾いたんですけど、もうね、すごかったですよ。演奏が始まった瞬間に、見たこともないのにロシアの風景が頭の中に広がるんですよ」
グールドの弾くスクリャービンもロシア的だと思った。
グールドはロシア(ソ連)で演奏会を行った時に聴衆から熱烈に歓迎された。
北国の人間の気質というか、性格みたいなものに理解がある人なんだと思う。
なにしろグールドはカナダ出身なので北国の情緒たっぷり。
「北の理念」というラジオ番組を自分で手掛けるほどで、高緯度帯の寒さと孤独と日の短さが人間の精神に独特の影響をもたらすという考え方を持っていた。
ついこの間はシベリウスのソネチネを聴いたのだけど、雪が降る情景がパッと絵になって浮かぶような幻想的な演奏だった。
ひとつひとつの音が、空から降りたてのまっさらで大きな雪の粒みたいに聴こえる。冗談とか誇張じゃなくて割と真剣に。
グールドといえばバッハだけど、そういえばバッハもドイツでは割と北の方だったな、とふと思い出す。この人は北方の作曲家の音楽になるととことん強いのかしらん。
その点、モーツァルトやベートーヴェンでは「なんだ、これは」と感じる時があるのは、ウィーンという土地がグールドの守備範囲よりも南に下りすぎているからなのかもしれない。
ブラームスだってウィーンじゃないか、と言われても、実はあの人の生まれはかなりデンマーク寄りなんだよね。
グールドがあの伝説的なゴルトベルク変奏曲によって世に出た時、リヒテルにもゴルトベルクを録音する話が持ち上がったらしい。
でも、リヒテルは「ゴルトベルクなんて、私にはとても録音する勇気がない」と断ったとか。
その話をしたら、先生は「ああ、やっぱりリヒテルでも…」と呟いて珍しく神妙な表情を浮かべた。
へえ、ゴルトベルクって、そんなに難しい曲なんだ、と密かに感じ取る。
戻れ、スクリャービン。
音楽は難しい。
音だけで表現されたものを受け取るというのが、こんなにも難しいことだとは。
言葉や絵は直接的・間接的にイメージを与えてくれる。
音楽は、聴いた者が自らの想像力でイメージを組み立てなければならない。
理屈はわからない。でも美しいと感じる。スクリャービンに耳を澄ます。
音という、目に見えず生まれてはただちに消えゆくこの掴みえぬ表現にも、ちゃんと理論があり形式があり体系がある。
理論や体系や形式によって統合されていない美しさはない、と理論書で読んだことを思い出す。
文章は残る。言葉は目で捉えられる。
音楽に比べれば。
いや、私には言葉だって十分に難しい。
何となく書き始めたnote。
いつの間にか10万ビューを超えていた。
フォロワーもちょこちょこと増えつつある。
読んでもらうからには、読んで良かったと思える記事を書きたい。
そうやって人の役に立つ文章を追ってしまうようになった。
フォロワーが求める情報を提供しなければならないと固定観念にとらわれていた。
文章はただでさえ難しいのに、ましてや誰かの役に立つなんて。
自分は数字を追いかけていないはずなのに、自分が数字に追われてしまうということは十分にある。
私はいつの間にか文章を書くことが苦痛になった。
もうnoteはしばらくお休み。
そう思っていた頃だった。
スクリャービンを聴いて、「役になんか立たなくていいや」と思った。
音楽という実態のない芸術。
スクリャービンの音楽はだれの役にも立たないじゃないか。
だれかの役に立つために音楽はあるのではない、ただ生まれて来ざるを得なかったから生まれてきたのだ。
もしもこの世界に「有益な音楽」なんてものがあったら、それはものすごく気持ちの悪いことだと思う。
音楽には2つしかない、いい音楽とそうでない音楽だ、と言ったのはデューク・エリントンだったっけ。
有益な文章なんて、書かなくていいのかもしれない。
有益な人間になんて、なる必要がないのと同じで。