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テラピース50個問題に隠されたゲーフリの天才的な狙い
今回は現在話題沸騰中の「テラピース多すぎ問題」について書く。
この問題が何かと言うと、もうそのままの通りで、テラスタイプを変更するために必要なテラピースというアイテムの数が多過ぎる、というユーザーの不満を表している。
特に、先日行われたバージョン1.2へのアップデートで、テラピースを消費せずにテラスタイプを変更する裏技が使えなくなり、巷では再びこの問題が再燃しているらしい。
ところがですね、「テラピース50個というのは、実はゲーフリがものすごく考えて、熟慮に熟慮を重ねた結果として、採用されたシステムではないのか」ということに僕は気がついたのだ。今回はそれを論証していく。
論証とは言ったけど、あくまで僕の個人的な見解に過ぎない。僕にはゲームフリークや株式会社ポケモンに関わっている知り合いはいないし、インタビューだってほとんど読んでいない。
要するに、この記事は科学における思考実験のようなもので、僕が頭の中で遊び感覚で展開した理屈をお披露目しよう、という趣旨で書かれている。論証というよりも、結果から要素を抽出する作業だと言った方が正しいかもしれない。そして証拠は何もない。
周りくどくなったけど、「ここから先はすべて筆者の憶測です。実際の団体や人物は関係ありません」という但し書きだと思ってもらいたい。それなりに納得のいく理屈を述べるつもりだけど、この記事を公式の見解であると嘘を吹聴したり、他の方の考えを否定することに用いるのはおやめ頂きたい。
テラピース問題の構成要素
僕はテラピース問題を構成する要素として3つを取り出した。もちろん他にも様々な要素があることは理解しているが、全部書いている暇はないので重要なものを解説する。
①レイドバトル
②コンテンツのイメージ戦略
③対戦環境の調整
特にこの記事を読んでいる人が知りたいのは③だと思う。時間がない方はそこまでスキップしてください。
①レイドバトル
これに関しては、特筆すべきことはないだろう。もしテラピースなしでテラスタイプを変更できる仕様にしてしまうと、レイドバトルをやる必要性は著しく低下する。
作品の目玉であるテラレイドバトルを誰もやらなくなったら、制作側としては目も当てられない事態である。
ただし、これはテラピースが50個必要にしたことを何一つ説明していないだろう。レイドバトルでしかピースを手に入れられない仕様にしておけば、たとえ必要数が10個でも20個でもプレイヤーはレイドバトルをやらざるを得ない。
期間限定のイベントレイドを盛り上げたいという意図があるにしろ、さすがに50個は多すぎるから、これも理由としてはいささか弱いと考えざるを得ない。
②ポケモンのブランドイメージ
これについては過去の記事で詳述したので、興味のある方は読んでください。もちろん興味のない方は、読まなくてもこの記事の理解に何らの差し支えも生じない。
要点をかい摘むと、「ポケモン公式サイドとしては対戦人口を増やしたくない」というのが、僕の憶測である。
ポケモンの原点に立ち戻れば簡単にわかる話で、元々はポケモンという不思議な生き物をたくさん捕まえて、図鑑を完成させるというコンセプトからこのゲームは始まった。
特にポケモンGOのリリース以降はこのことを顕著に押し出しており、レッツゴーシリーズやLegendsシリーズなどは、ひたすらにポケモンを捕まえるゲームだと言っても過言ではない。
なぜたくさんポケモンを捕まえるのか?同じポケモンを何匹も捕まえるのはなぜか?
それは生物の生態を理解するために欠かせない作業だからである。まったく同じ人間がいないのと同じく、すべての生物には個体差が存在する。そして各々の差異が多様性を生み出している。
体の大きさ、性格、能力の違いがポケモンにおいても表現されていることは、色違いや個体値といった要素からもはっきりと読み取れる。同じポケモンでもそれぞれ違いがあることを、制作側は世代を新しくするごとに要素を増やして表現しようと試みている。
戦いが得意なポケモンもいれば、人間の生活を支えるポケモン、友達のように気が合うポケモン、癒しを与えてくれるポケモン、色々なポケモンがいていいはずだ。
だが、もしポケモンを対戦という一つの要素で見る価値観がメインストリームを形成すれば、多様性を著しく損ないかねないのだ。
嘘だと思うなら、想像してみてもらいたい。もし日本の社会が「スポーツこそ素晴らしい。日本人たるものスポーツを愛すべきだ。国民全員でスポーツを盛り上げよう」と国家が政策を打ち出したら(東京オリンピックの話ではない、はず)、スポーツをやらない人は息苦しくて仕方がない。
息苦しいだけならまだしも、学校や仕事で誰もが昨日の試合の話しかしなくなって、試合を見ていない人を非国民のように扱う世の中になったら、それこそ悲惨である。「いや、おれサッカーとか興味ないんだわ。ボール蹴飛ばしてるの見て何が楽しいの?」なんて言いようものなら、クラスメイトや同僚から陰でどんなレッテルを貼られるかわからない。
わかりやすいのでスポーツを例に出したけど、勉強でも経済力でも好きなものを当てはめてください。すべての人間が学歴や収入だけで品定めされる世の中って、ものすごく生きづらいと思いませんか?
どうしてもピンとこない人は「〇〇大学以下は人権ない」「年収1000万円以下はクズ」みたいなことを言う誰かを思い出してください。
ポケモン社会だって同じである。もし価値判断の基準として「対戦で活躍できるか否か」が重要視されるようになったら、対戦で強くないポケモンの肩身が狭くなる。
極端な例え話として、「パピモッチが大好き!」な小学生の女の子がいたとしよう。
同級生の対戦マニアな男の子が「パピモッチ?進化しても弱いし、しかも君のは通常特性じゃん。他のポケモンにした方がいいよ」と言ったら、女の子はどんな気持ちになるだろう?なぜ自分の好きなポケモンの存在意義を「対戦」というたった一つの尺度で計測されなければならないのだろう?
まさかと思うかもしれないけど、まさかと思うようなことが人間の社会では平気で罷り通ることについては、スポーツやら学歴やらの話でわかってもらえたと思う。
ずいぶん話が回り道してしまったけど、育成環境をある程度厳しくしておくことは、対戦人口の抑制装置としての役割を果たしているのである。加えて「テラピース集めるのだるいから対戦はやらない」という層が出現することを、公式が想定していないはずがない。
確かにSVは、テラピース以外の面では育成が楽になったと反論さるかもしれない。だがそれは、連射コンのような外部ツールを用いた場合である。多くの小学生は自分で連射コンを買うことはできないだろうから、必然的に対戦環境への参入障壁が高くなる。
これもあえて公式が意図していることで、幼き対戦狂がクラスに蔓延することを防ぎ、パピモッチ好きな女の子のポケモンライフを保護しているのである。
考えてみるとポケモンというゲームは、小学生やライト層が気軽に遊べるようにできているにも関わらず、対戦に関しては求められる知識の専門性が格段に増加する。あえてライト層や子供が対戦に入りづらくしているとしか考えられない。
まとめると、公式は対戦人口が過剰に増加することを警戒しており、育成の難易度を調整することによって対戦人口をコントロールしている、という話である。対戦が好きで仕方がない層は一定数いるはずだから、どれだけ育成環境を引き締めてもやるやつはやる、と考えているのだろう。
だがしかしそれでもですね、これもテラピース50個問題に対する明確な答えとは言い難いだろう。だって育成環境を調節したければ、テラピース以外のところで帳尻を合わせればいいじゃん?
というわけで、ここからが本題になる。テラピースを50個必要にしたゲームフリークの天才ぶりを解説していく。
③テラスタル環境への介入
僕もテラピース50個は多すぎると思っていたし、増田さんの嫌がらせなんじゃないかと勘繰っていた。失礼な話だけど「また居酒屋ルールと同じノリだろ」と安易に考えていた。でもそれと同時に、僕は違和感も感じていた。
今作の対戦環境は、出来すぎている。あまりにもバランスが良い。そう感じているプレイヤーも少なくないはずである。実際に有名なダブルバトルの元世界王者も動画の中で「環境調整が神ってる。ゲーフリに天才がいるのか、スタッフ全員が天才なのか」と語っていたので、僕だけの実感ではないはずだ。
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