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大人のための「東大現代文誤読ゼミ」

2022年の東大の入試問題は公式ホームページよりダウンロードできる。

https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400186964.pdf


この記事は入試問題の解答や解説の類ではなく、東大2度落ち芸人が久しぶりに東大現代文を読んで、思ったことや考えたことをつらつらと書くものなのでその点は誤解なきように。



間違っても受験生はこの記事を読んで貴重な時間を潰さないように、念を押しておいたからな。



大人が東大現代文を読むメリット


個人的に「この勉強をすると、こんなメリットが享受できますよ」という話が大嫌いだ。
勉強というのはそれ自体が面白いからするもので、その対価として現実的な利益を受け取ることを前提にするのは、勉強ではなくて「労働の変形」だと思っている。



が、その信念をちょっとだけ曲げて、なぜ大人が東大の入試問題、しかも現代文などを読むと良いことがある(かもしれない)のかを、最初にご説明申し上げる。


東大現代文を読むと、「今、知識人は、この世界では何が問題だと考えているか」がわかる、というメリットがある。
要するに、「東大教授(出題者)になるほどの頭のいい人たちは、現代の世界をどのように捉えているのか」について、その辺のニュース番組やSNSを見るよりもはるかに正しく認識できる、という点にある。


例を出すと、ええと、そうだ、私が東大を受験した(そして落ちた)年の出題は、内田樹先生の「日本の反知性主義」からの抜粋だった。
それがどうしたかというと、この年度(2015年)には、アメリカ大統領選挙でドナルド・トランプ氏が勝利するという出来事があったのだ。


トランプ氏の勝利は「ポピュリズム(大衆迎合主義と訳されることが多い)」の世界的な潮流を象徴している、と多くの知識人は考えた。
つまり、「物事を単純化して、バカども(民衆)にウケる振る舞いをする政治家が勝つ」時代を、世界中が迎えつつあった。



現実とはさまざまな変数=ファクターで成り立っていて、何が原因で何が結果なのか、簡単に断定することはできない。
そういう現実の「複雑さ」を「複雑なまま」扱うことが知性である、と内田先生は説いている。



だけども、トランプ氏は「反知性主義」の象徴として世界政治の舞台に現れた。
「国民なんていうのは、その過半数以上は頭が悪くて知性なんて持ち合わせていないものだ。(だから)できるだけ現実を単純化して、わかりやすく言い切ったもん勝ちなんだ」という気分を代表していたのだった。


反知性主義とは「自分で考えるの、めんどくさくね?」「だれか、わかりやすく言ってくれよ」と思っている人たちが増加し、マジョリティを形成する流れを指した言葉だ。


東大の教授たちは、トランプ氏の登場に、そして彼が意識的にか無意識的にか体現している「反知性主義」が広く人々に受け入れられる現実に、相当な危機感を覚えたのだと推測する。
そして反知性主義のメッカとなりつつあるアメリカと「親密な同盟関係
(属国とかいうな)」にある日本も、放っておけば間違いなくその煽りを受けることになる。


そういう危機感に苛まれた中で、東大教授陣は受験生に向けて「危機の警告」を発していた、と考えるのは、あるいは穿ち過ぎかもしれない。
私は、巷でよく囁かれる「東大の問題は、出題者の世の中(主に教育)のあり方についての問題提起だ」という言説について、個人的にはほとんど「どうでもいい」と思っている(だって確かめようがないじゃん)。


でも、こと現代文に関しては、手のひらをくるくるっと返すことにやぶさかでない。
というのも、東大現代文は現代世界におけるホットな話題を背景にしていることは間違いないからだ。
東大現代文には、いわば「アクチュアルな(現代性の高い)」テーマが含まれていることが多すぎる。


今回取り上げる文章は、2022年の出題、ということは世界中が「コロナ禍」真っ只中の時代の問題だ。
テーマは「ナショナリズム(→国民国家体制)」について。


ナショナリズムってなんだよ、国民国家体制なんて知らんがな、という方は、この後をお読みいただければ大筋は掴めるかと思う(そのために書いてるんだから)。
ここでは、ナショナリズムとコロナ禍の何が関係あんねん、という疑問に答えておく。


国民国家はイマジナリー・バンドといって「想像上の共同体」、もっといえば「幻想」に過ぎない、という考えがある。
特に冷戦終結以後、アメリカによって「グローバル化(=世界平準化=アメリカ化≠国際化)」の時代を迎えるにあたり、国民国家体制あるいは国境という概念の正統性に対する疑問が大きくなっていった。


話がややこしいだって?
ほら、税金を払いたくないからっていうだけで「無国籍」になった企業とかあるじゃん?
アメリカ主導の高度資本主義経済の時代には、国境とか国籍とかつまりは「国家」なんてもの無くなってしまった方が、「経済的には都合がいい」と考える人が増えた、そういう話。


ところが、世界的なパンデミックを迎えると、どの国も「国境の閉鎖」を行なった。
他国からの入国を認めず、自国からの出国とそれに伴う帰国を禁止して、「ウイルスを持ち込まない」という戦略を打ち出した。



あれだけ「グローバリゼーション」「人とものが自由に行き交う世界」「ボーダーレスの時代」を称揚して、「国籍なんて、国境なんて、いらないよ」「自分の国がダメになったら、他の国に住めばいいじゃん」と言っていたはずなのに、いざ目に見えない恐怖が現れると「国境を閉ざせ!」という流れになった。


すでに使い古された、時代遅れだと思われていた「国民国家体制」が、意外にもまだまだ機能しうるのだと、人類はコロナ禍によって思い知らされた。
そういうバックグラウンドがあることを意識して読むと、この年の東大現代文は味わい深くなるのではないだろうか。


東大現代文がアクチュアルであると述べたのは、こういう意味です。
興味があれば、ぜひここから先……は別に読まなくていいので、入試問題を読んできてください。


東大現代文ってこんなに難しかったっけ?


一読した感想?
東大の現代文、ずいぶん難しいじゃないか。
扱っている文章の高級なことはもちろん、設問が憎いくらい良いところを突く。
これを東大受験生しか解いていないなんて、ちょっともったいないと思っちゃった。


何より思想的にチャレンジングというか、「こんなの大学入試に出したら、国からの資金援助切られるぞ」と笑ってしまうようなテーマなのだ。
なんとね、政治の話、しかも「ナショナリズム」についての内容なのだ、これが。


私たちは、「日本人であること」を当たり前だと思っている。
なぜか? 日本に生まれ、日本人の親から生まれたから。
でもさ、それって本当に当然のことなのか、というのが筆者=鵜飼さんの問題意識だ。


そもそもナショナリズムってなんやねん、って思う人もいると思うし、高校生もよくわかっていないはず。
実を申せば、私もよくわかんないんです。私の頭が悪いのを差し引いても、ナショナリズムというのは複雑で難しい現象(概念)なんだけど、頑張って簡単に説明しよう。


ナショナリズムとは、つまり「国民国家体制」の話だと思ってもらいたい。
国民国家というのは、自分の政府と、明確な領土を持った、「国民」の集まりのことだ。
自分たちことは自分たちで決めることができて、他国の侵入を許さない自分たちだけの縄張りを持っている、そういう人たちが作った国のこと。


日本は島国で、周囲の国から孤絶されている。
そのため、わざわざ「ここから先に入るなよ」と境界線を引かなくても、物理的に他の国々と遮断されている。


鵜飼さんがわざわざナショナリズムの語源を辿っているように、国民国家という考え方は、ヨーロッパが生み出した概念あるいは政治的装置なのだ。
島国のイギリスを除いて、ドイツやフランス、スペイン、ポルトガル、その他数多の国々が陸地の上で境を接していて、時代ごとに境界線は移り変わっていった。


でも、元々は国境などというのは、けっこうアバウトで曖昧なところがあった。
ヨーロッパの国々は山や川といった「自然に」よって大枠を仕切られながら、その時々でお隣さんとどんぱちして領土を奪ったり奪られたりしていた。



ところが、1648年のウェストファリア条約によって、国民国家の先駆けである「主権国家」が誕生することになるのだけど、話が逸れるので省略。


比喩的にいえば、国民国家というのは、「巨大すぎる近所付き合い」なのだ。
お隣さんと自分の家の間に塀を立てて、「ここからは入らないでください(うちもお宅の庭には入りませんから)」と決めるのが国境の確定。
でもって、「我が家の問題(子どもの進路とか、夫婦仲の不和とか)には口出ししないでくださいね。私の家の中のことは、私たち家族で決めますから」と宣言して自前の政府を確立する。


クレヨンしんちゃんには、野原家の隣におせっかいなおばさんがいる(名前出てこない)。
家の塀越しに「ねえ、野原さん。こんな話が……」みたいに、地域の情報を教えてくれる(漏洩する)。



国民国家ができるまでは、つまり国境についてあまりうるさくなかった時代には、ああいう「世話好きで、他の家に首を突っ込む」ことについて、あんまりこだわりがないというか、「まあ、程度をわきまえてやる分には、ね」というコンセンサスがあったのかもしれない。


でも、ある時から「うちは、うち。余所者は、入るな」という話になった。
今の日本ではマンションが主流だけど、あれなんか「ご近所付き合い拒否」の最たるものでしょう。



国民国家体制というのは、ある意味では「ウチに用があるなら、ちゃんと玄関のベル鳴らしてください」と言っているのに近いのかもしれない(=明確な境界線を持つということ)。
それから、塀越しに話しかけたりするなよ、って(=内政干渉の禁止=他国がちょっかい出すなよ)。


つまり、「自分たち=内」と「そうでない人=外」を、「生まれた場所」と「血縁」によって明確に区切るのが国民国家なのだ。


この年の東大現代文は、そういう背景を持つ「ナショナリズム(国民国家)」の話をしているので、だから私は「ずいぶん難しいじゃないか」と思ったわけ。


国民国家というマボロシ


国民国家というのは、実は幻だ、幻想の産物だ、という話をしたことで有名なのがベネディクト・アンダーソンさんという人。
『想像の共同体(イマジナリー・バンド)』というタイトルの本を出していて、国民国家があくまでも人為的なもの(=自然にはないもの)だと説いている、らしい……すみません、不勉強なので読んでないんです、ごめん。


勘違いしてはいけないのは、アンダーソンさんは「国民国家なんて幻想だ。その幻想を、ぶち殺す!」と言ってイマジンブレーカーを発揮しているわけではないということ。
論旨はあくまで「確かに国民国家は想像の産物かもしれないが、それでも人類はこの幻をうまく活用していく方法を考えなければならない」ということ、らしい、すまん、読んでないから……


実は、我がジャポンでも、イマジンブレーカーの使い手がいた。
その名は、福沢諭吉元1万円札先生である。という話はもう少し詳しく調べてから、機会があれば書きます(そんなのばっかりだな)。


甘ったれジャパン代表


さて、本題の東大入試に戻ろう。
筆者の鵜飼さんはカイロの博物館で、ツアーできている日本人の集団に出くわす。
何の気なしにツアーガイドの声に耳を傾けていると、「あんたにはガイドを聞く資格はない」と注意される。
このエピソードから、鵜飼さんは「ナショナリズムの危うさ」について話を展開する。


設問(1)で傍線が引かれているのは、「その『甘さ』において私はまぎれもなく『日本人』だった」という1文だ。


あれだけ注意したのにこの記事を読んでしまっている不届きものの受験生のために教えると、この設問はまず ①『甘さ』とは何か? ②『日本人』であるとはどういう意味か?に分解して考えてから答えを作るんだよ、えっへん。
なお、満点が取れるとは言ってない、まずますの部分点はもらえるはずだけど。


甘さ、とは何かといえば、「同じ日本人だから、聞き耳立てても許されるでしょ」と勝手に思ってしまったこと……だけではちょっと弱いと思う。
前の方の文章を読むと、日本人は日本人の中でさえ種々の集団に分かれて壁を築く、という話が書かれている。



このことが一番如実に出ているのは、「派閥」ではないだろうか。
党内派閥はもちろん、職場においても「〇〇派」みたいなグループを作って、派閥外の人を「あの人、付き合い悪いから」「仕事はできるのかもしれないけど、ね。」「ほら、一匹狼ぶってるところ、あるじゃん?」と余所者扱いする風潮、あるでしょ。



日本の派閥の何がきついかって、対立している派閥に入っている人よりも、どこの派閥にも属さない「無所属」の人に対しての風当たりの方がきついことだ。
超電磁砲の御坂美琴もそうだけど、中立である=どっちの側にも肩入れしないためには、相当な実力がないといけない。
異端は異教よりも憎し、ではないけど、「無所属は敵よりも気に障る」のが、日本人の心性みたいだ。


話を設問に戻す。
筆者は、日本人は日本人の中にも「余所者」を作り出す国民だとわかっていた。
だのに(!)「ここは外国だから、自分も『日本人』という仲間(派閥・サークル)=内側の一人だとみなしてもらえるだろう」と思ってしまったこと、それが「油断した」ということであり、つまりは『甘え」たということだ。


「外」なる場所にいるのだから、「外にいること」で共通している仲間だと認識される、それが筆者自身の「排外神経」の作用の仕方だった。
ところが、実際には、ガイドにとってはツアーの参加者であるか否か、「(自分の会社に)お金を払っているか」こそが、地雷の在処だったということになる。



筆者の鵜飼さんは、日本人の、仲間と敵を分ける仕方、内と外の線の引き方を我が身に引き受けることによって、すなわち「自分自身が除け者にされた」ことを通じて、「自分の甘さ」を同じ日本人によって痛感させられた。
同族集団のメンバーの選定基準を知っていながら、うっかり目測を誤ってしまった。



そして「そういう(日本人ならではの)甘さがあるの、やっぱり俺も日本人なんだなあ」と思った、という話だ。(鵜飼さんが普段どんな一人称を使うか存じ上げないのですみません)
日本人の「なあなあ」さといえばいいのか、「まあ、ここはひとつ、親戚のよしみで頼むよ」みたいな、境界線の緩さに期待してしまったのだ。


国民国家=「契約結婚」


欧米は契約社会とはよく言われるけど、国民国家は「政治的な契約」だ。
そもそも契約の始まりは、天なる父=主=神との約束である。
契約=聖書=神様のルールブックに反すると、「地獄落ち」のペナルティが下される。
国民国家も「ここまでが(国境を引く)うちだから、黙って入り込んだら、ただじゃおかねえぞ」という相互の「契約」の上に成り立っている。


一昔前に「逃げ恥」っていうドラマがあって、星野源とガッキーが「契約結婚」する話だった。
年齢的に結婚しないと周りがうるさいけど、でも本人はそんなに乗り気じゃなくて、「じゃあ乗り気じゃないもの同士で形だけ結婚すっべ」というところから始まるんだった気がする(ちゃんと見てない)。
家事の分担も「契約」に基づいてきっちり分けて、契約更新」みたいに定期的にお互いの負担を調整する「会議」を開催する。


「逃げ恥」のよくできているところは、あくまで「体裁」で共同生活を送っていた二人が、やがてお互いを男女として意識するようになることだ。
当初の「契約」がだんだんとなし崩し的にぐずぐずになって、最後はめでたく真の愛で結ばれる(だからちゃんと見てないんだってごめん)。



多分だけど、この感覚って、欧米人には理解不能なんじゃないかと思う。
少なくとも、ヨーロッパの人たちが「逃げ恥」みたいなドラマを生み出すことはなかっただろうし(あったらすまん)、ドラマを見ても「ところで、契約はどうなったんだ?」と思うんじゃないかしら(知らんけど)。


よく考えてみたら、「なあなあな関係」とか「〇〇のよしみ」って、日本語以外の言語にあるのかしらん?


なんの話かというと、日本人の「契約」についての考え方は、かなり特殊なものだ、ということ。
国民国家が「契約国家体制」なのだとすれば、日本人の国民国家に対する意識は、欧米のそれとはかなりズレがあるかもしれない。


残念ですが、さようなら。


ええと、設問2に行こうと思ってたけど、長くなったので気が向いたら次回書きます(書かなかったらすみません)。
では、みなさん、こんにちは。そして残念ですが、さようなら。はあ。

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