ポケモン対戦をやめた人間の末路
2ヶ月くらい前にポケモン対戦を引退することにした話を書いた。
今回は、「じゃあ、やめた後どうなってるの?」について話す。
ところどころでポケモン対戦について否定的な見解を述べることになるけど、それはあくまで「私にとって」のことで、ポケモン対戦をやめることを勧めるつもりはない。
引退したプレイヤーの後日譚のサンプルのひとつとして、特に深いことを考えずに気楽にご覧いただければと思うので、そのあたりはまあ、どうぞよろろす。
ポケモン対戦フラッシュバック現象
あまり品のない例えで申し訳ないけど、性欲が沸き起こってくるみたいに、時々どうしようもなくポケモン対戦をやりたくなることがある。
人間に備わる闘争本能、とまで表現すると言い過ぎな気がするので、ひとまず「戦欲」とでもしておこうと思う。
戦欲とはそのままの意味で「あああ、なんか無性に戦いたいぃぃぃ」と言う気分になることである。
今までは戦欲が湧いてきたら、3時間くらいぶっ通しでランクマに潜って(そして負けまくって)、それこそ戦欲処理みたいに「あーこれでスッキリしたからもういいや」と発散していた、という話は卒論で書いた。
で、あるときに同じようにしたところで「これさ、純粋な時間の浪費だよな?」と悟った。
それでいっそのことポケモン対戦をやめてしまおうと決めた、というのが卒論までのあらすじである。
2ヶ月ほどは何事もなく、つまりはポケモン対戦をやりたいなんて露とも思わずに平穏な日々を過ごしていた。
ところがたいへんなことに、先週くらいにいきなり戦欲が荒ぶり出してしまい、危うくSwitchを機動する1歩手前まで行きそうになった。
ちょこちょこ書いているのでまたかと思われるかもしれないけど、私は「やるならとことんやる=やらないならとことんやらない」という扱いの面倒な性格の持ち主だ。
もしもまたポケモン対戦に復帰するなら、それこそ世界大会とか、あるいはそれに類するようなレベルを目指すのでなければ、今からやる意味はない。
もちろん、趣味として、いわゆるエンジョイ勢としてプレイすることを否定するつもりはない。
ただ、現在の私には ①読書②語学③音楽④美術 といった明確に「人生を通して向き合うべきタスク」がある。
それらにかけることのできる時間を減らしてまで、娯楽としてのポケモン対戦をやりたいかと自問すると、答えははっきりしている。
時間とお金と体力という限りある貴重な手持ちの資源を、娯楽のためのポケモン対戦に割くことはできない。
リソース配分についての脳内会議では、とてもではないけどエンジョイ勢としてランクマに潜ることは認められない、という結論が出た。
では、もう一つの選択肢、つまり貴重な資源を投じてでもポケモン対戦を極めたいかと問いかけると、こちらも答えははっきりしている。
自分がポケモン対戦を突き詰めて、5年後にたとえば世界大会に出たりランクバトルで上位の成績を取ったとする(考えうる限り最上の結果を仮定する)。
そのためには毎日対戦をこなすだけでなく、構築記事を読み漁り、ダメージ計算の力を養い、バトルデータを頭に叩き込み、他の人の対戦動画を見て、トレンドを追いかけ続けることになるだろう。
果たして10年後の私はその努力に感謝するだろうかと考えると、「いや、たぶんしないと思うよ」という返事が返ってくる。
ポケモンの世界大会に価値がないとか、強くなることに意味がないとか、そういう話ではなくて。
単純に「山に登りたいか、それとも海に潜るのが好きか」という、いわば人生観の問題に過ぎない。
私は山が好きで、あなたは海が好きだとしたら、それでいいではないか。
登山家がダイバーを嫌う必要もなければ、漁師が山火事を起こす必要もない。
私の人生にとって価値あることの中に、ポケモン対戦は含まれていない、というだけだ。
では何を追い求めたいのかと聞かれれば、これも答えに迷うことはない。
ただ、私自身の言葉ではなく、グレン・グールドの言葉をもって提示する。
ポケモン対戦に真剣に取り組むことは、私の人生の目的を達成するためにほとんど役に立たない、そう判断する。
50年後のポケモン対戦
私が10代や20代前半ならば、きっと違う答えもあり得たかもしれない。
でも実際には私は30歳を目前にしていて、ここでの選択はこの後の人生をほとんど決定づけるだけの重みを持つかもしれない、そういう年齢にある。
今何を選ぶかの基準は、「10年後あるいはもっと長いスパンをかけて取り組むに値するか否か」だと考えている。
この歳になると、物事はなんでも、10年やってなんぼだと改めて思う。
今からポケモン対戦にのめり込んでも、10年後にはプレイヤーとしての賞味期限はとっくに切れていて、この分野でトップに立つことはできない。
しかも、ポケモン対戦の残念なところは、鑑賞者として一流を目指す道がない(に等しい)ことにある。
その点、語学や芸術であれば、プレイヤーとしては当然ながらものにはならないだろうけども、作品の受け手としてならば、10年間本気で勉強すればかなりのレベルに達することができるだろう。
ポケモン対戦人口はだいたい20万人いるけれども、原書でシェイクスピアを読める日本人はせいぜい1万人もいないだろうし(主観)、音楽を理論的に聴くことのできる人口もだいたいそれに似たようなものだろう(主観)。
あるいは英語、それからフランス語やドイツ語をものにできれば、他の国々の人たちと深いコミュニケーションができるかもしれない。
芸術について造詣を深めることができれば、同じく芸術の道に通じただれかと分かり合える体験ができるかもしれない。
それから、果たして10年後にポケモン対戦が存在しているか、という問題がある。
これも答えははっきりしていて、「わからない」である。
ましてや50年後、つまり私が(もしもまだ生きていたら)まさに人生を終えようとしている時に、ポケモン対戦があるかと問いかけると、不確実さはさらに増す。
では50年後にバッハの音楽がなくなっていることはあるだろうか?
答えは明確に「No」だ。バッハの音楽がなくなるということは、音楽そのものが消滅していることを意味する。
50年後にモネの絵の価値が無になることがあり得るだろうか?
答えは「No」でしかない。モネの絵が価値を失うならば、もはや人類の存在価値がないことを意味するだろう。
10年後すら怪しいものと、10年どころか私が死んだ後も人類が滅びるまでこの世界に残り続けるもの、どちらを選ぶか。
私はいつの間にか、そういう「人生の方から私に向かって投げかけてくる問い」と向き合わねばならぬ年齢になってしまったのだった。
「何をしないか」=テラピース集め
結局のところ、私が直面しているのは、限られた時間の中で「何をするか」よりも「何をしないか」の問題なのだ。
時間もお金も体力も無限に与えられたならば、ポケモン対戦を楽しみながら語学も芸術も運動も、すべてを追い求める世界線もあっただろう。
あるいはさっきも言った通り、私が10代や20代前半ならば、「ごちゃごちゃ言ってないで、やっちゃえオニゴーリ(じ・ば・くぅぅぅぅぅ)!」という選択もできたかもしれない。
でも現実は、アラサーと呼ばれる人生の大きな分岐点に立っていて、今ここで行う選択は10年後のみならず、この先何十年にわたる人生の方向性を決めかねない。
そうは言っても、戦欲はなかなか手強いもので、ついつい「あのポケモン使ったら面白そう」と妄想してしまったりする。
頭では答えが出ていても、欲求や気分がそれに応じて静まってくれるものではないのが、人間の難しいところである。
私の戦欲をすっかり宥めてくれたのは、思いもかけないものを思い出したことだった。
それが「テラピース多過ぎ問題」である。
ポケモン対戦をやるということは、テラピースを集める時間が必要なのだ。
ほとんど作業といって差し支えないレイドに費やす時間は、私の人生に何か良きものをもたらしてくれるかと考えるまでもなくゾッとした。
もしもテラピース集めがこんなに大変でなくて、さくっと育成して対戦ができたら、私はうっかりポケモン対戦を続けていたかもしれない。
そう思うと、ゲームフリークが50個に設定してくれた良心に、感謝の念すら湧いてくる思いがする(別に湧いてこない)。
と、まあ、こんなところでポケモン対戦の話は終わりにして、次回のポケモン話はおそらくポケモンスリープについてになると思う。
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