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クラシック音楽の入り口 勉強する者だけが手にする喜び


天才だけが天才を理解する

ピアノの先生に勧められて、つい最近になって私は初めてクリスティアン・ツィメルマンの演奏を聴いた。
モーリス・ラヴェル「ピアノ協奏曲ト長調」で、ピエール・ブーレーズ指揮によるクリーヴランド管弦楽団の演奏である。


先生は前からツィメルマンの演奏を高く評価していて、私も機会があれば聴くようにと勧められていた。
私はさっそく近所の音楽店やブックオフに探しに行ったのだけども、なぜだかツィメルマンの録音が見つからなくて、ついつい先延ばしにしてしまっていた。


あるレッスンで、なんの拍子か忘れてしまったけれども、というかよくあることなのだけれども、ふと私が聴いた演奏についての感想をこぼすと、先生もずるずるとプロの演奏家について話し始めた。



こうなると、もう止まらない。
クラシック音楽を日常的に聴く人間は身の回りにほとんどおらず、普段はスピーカーから流れる音にひとり黙々と向き合っている私にとって、自分が聴いた音楽について語れる相手はピアノの先生くらいしかいないし、おそらく先生の方でも教え子に「聴く専」はいないだろうから、それぞれ知っていることを語りだすと話題は尽きない。


ロベルト・シューマンは「天才だけが天才を理解する」と名言を残したけれども、勉強を重ね学びを深めるほどに、この言葉の「真実さ」が身に沁みて感じられる。



もちろん、私は間違っても何かの天才などではないので、様々な分野における「天才たち」を本当の意味で理解できる日がくるとは、まさか思い上がってもいない。
けれども、たとえ天才には遠く及ばないとしても、やはり人間には、何かを学び、道を極めようとして、至高のものを追い求める者同士だけが、わかり合いわかちあうことのできるものが、そしてそのことによる喜びが、あると信じている。



「働かざる者、食うべからず」が正しいかどうかは知らない(別に働かなくても食べれるなら、それでもいいではないか)。
だけども私は、「学ばざる者、理解する能わず」は、この世界の真理なのではないかと考えている。
そして、「理解ができない」ということは、すなわち「愛することができない」だということを、私は吉田秀和先生から教わった。


だから、勉強は続くのだ。
学ばざる者は理解する能わず、理解せざる者は愛する能わず。


男っぽい音、女性的な演奏。


私が、マルタ・アルゲリッチのベートーヴェン「ピアノ協奏曲1番ハ長調」と、ウラジミール・アシュケナージによるシューマン「謝肉祭の道化」を聴いた話をすると、先生は「アルゲリッチの音は男っぽい感じ」とか「アシュケナージは速いでしょ?」とおっしゃった。



私は、アシュケナージの演奏は一聴した限りでは「はあ」という感じで、いまいちピンとこないところがあったのだけど、なるほどアシュケナージの演奏が「速い」のだとすれば納得はいく。
私をクラシック音楽の世界へ迎え入れてくれたグレン・グールドは、異様なまでに遅いテンポを好み、執拗なまでに1つの音を聴かせることに執念を燃やしたピアニストだった。



ブラームスの2番コンチェルトで共演した指揮者レナード・バーンスタインが、グールドの指定するテンポに疑義を挟んで、演奏前に聴衆に向けて「これはグールド氏のテンポであって、私の解釈ではない」というステートメントを出して物議を醸した事件(今となっては伝説)があったそう。



グールドの演奏が正しいかどうかはともかく、小澤征爾さんはその演奏を聴いて、テンポが遅すぎるあまり「音楽はバラバラに解ける寸前」で、「グールドの強靭な内的リズム感覚、間の取り方でなければ、とても保たない(バーンスタインもオーケストラもたいへんだっただろう)」とのことである(今度聴いてみようと思いながら数年が過ぎてしまった不覚)。


アシュケナージに話を戻すと、演奏が「速い」ということは、それだけ音と音の間の繋ぎ目が密であり、つまり流れるような演奏になるので、私の耳が追いつかなった、という理屈が立つ。
私アシュケナージの他の曲も、あるいは他の演奏家による「謝肉祭」も聴いたことがないので(恥かしげもなく言ってのける)、いずれ探して比較してみたいと思っている。


アルゲリッチの「男っぽい感じの音」については、私はむしろ「女性的な演奏」と感じたので、意見が食い違っているように思われた。



アルゲリッチの演奏を聴いていると、女性の二面性というか、はたまた移ろいやすい女心とでも言えばいいのか、右手と左手がそれぞれに(いわば対位法的に)旋律を奏でながら、それでいて「どちらも一人の人間」という感じがする。
グールドの対位法の場合は、各声部を自由かつ独立したものとして奏でるという点ではアルゲリッチと同じでも、右手と左手がまったく別々の生き物という感じがする部分で異なっている。



アルゲリッチの演奏を「女性的」と言ったのは、こういうことである。
さっきまでは恋人の男性にぴったりと寄り添い、親密さを余す事なく表現していた女性が、次の瞬間にはそれを忘れたかのように、男性にハッと嫌な汗をかかせるほどの冷淡さを見せて、でもそれはほんの一瞬のことで、再び親しげな仕草や表情に戻る、男性はその変わりように度肝を抜かれるのだけども、そのどちらの面も「彼女」であるという、女性だけが感じさせる「二面性」のことだ。



もしも男性が同じことをすると、例としてはあまりよろしくないけども、DV夫のような「あの人には裏がある」と言いたくなるような現象が起きて、つまりは表の顔と裏の顔というキッパリと区別された感じがして、時や場面や人に応じてスイッチが切り替わる「カチリ」という音が聞こえさえする。



しかし、女性の場合は同じ一つの顔に二つの表情があるとでも言えばいいのか、「さっきまでの温かい女も私だし、今の冷たい女も私」とでも言わんばかりに、シームレスに一つの表情から別の表情へと移りゆくあの境界なき変容力。
もしも「女性的」とは何かを強いて定義するならば、二つの矛盾するもの(この場合は顔=人格)を無矛盾的に包含していることである、と私は思うのだけども、そういう感覚は果たして私だけのものなのだろうか……



だけども、先生が「男っぽい」と言った理由が、そのレッスンの翌週のレッスンでわかった。
それは、男性と女性ではピアノの演奏に際して、身体的な違いからどうしても「力の入り具合」が異なることに起因している。



ざっくりと言えば、男性は肉体的な力(腕力とか)が強いので、大きな音や強い音を出すのにも余計な力を使う必要がない。
しかし、女性の場合は、男性よりも身長が低いことや筋力が弱いことが多く、音を鳴らすのに「身体のどこかに余計な力が入ってしまう」のだという。
スポーツでも「自然体で」などというように、過度に力を込めると身体の動きが「つっかえる」現象が起こるのと同じで、ピアノにおいても力みは演奏の流れを阻害する要因となるそうだ。


そういうことを踏まえて聴くと、確かにアルゲリッチの音は「男っぽい」というのも頷ける。
後ほど書くつもりだけども、先生にこの話を聞く前に、私はラヴェル「水の戯れ」を演奏家を知らない状態で聴いて「グールドみたいな演奏だな」と感じたのだけど、それが実はアルゲリッチの演奏だった、という体験をした。



「きれいな音」と「出来過ぎた」演奏



アルゲリッチやアシュケナージの話から、ブラームスやベートンヴェンそれからシューマンの解釈へ、果てはスクリャービンやプロコフィエフへと話は移ってゆき、気がつけば30分のレッスン時間が終わろうとしていた。
いったい私はピアノの演奏を習いに行っているのか、それとも音楽の話をするために月謝を払っているのか、その辺りは次第に曖昧になりつつある今日この頃である。


教室を出る時に、先生から「そんなに聴いてるんだから、早くツィメルマン聴いてください。ラヴェルの協奏曲、あれ、感動するから」と言い渡される。
そういえばすっかりツィメルマン探しを忘れていたなあ、と思い、家に帰って南米の熱帯雨林を流れる世界最大水量のあの川の中で捜索を始めた。


ラヴェルの協奏曲としか聞かなかったけど、おそらくこれ(ト長調)だろうと察して、ぽちぽちと買い物を進める。
私はCDや本を買うのは実在の店舗で、と頑なに思っているので、某川での買い物なんて外道だと抵抗はあったのだけど、いざ使ってみるとあれだけ探しても見つからなかったツィメルマンの演奏がいっぱい出てきて、「すべての道がローマに通ずると言えば嘘つきになるが、アマゾン川は世界中に繋がっていると言えば現代世界の真理を述べることになる」という事実をよくよく思い知らされた。


翌日に物が届いたので、仕事を終えた夜に部屋を暗くしてひっそりとCDを再生する。
微かな打楽器の音が聴こえてきて、そこから主題の提示があって展開部へと移行し……みたいに専門的な解説はできません、すみません。
やっぱり楽譜を読めるように勉強しなければと思いながら、今日もピアノの課題曲のスコアを写譜してコード進行の読解を試している。


演奏を聴き終えた。
私は、感動はしなかった、というよりも、できなかった。
それは演奏に落ち度があったのではなく、私の方で、つまりは聴き手の方の能力に不足があるからだ。



発信する側がどれだけ優れたものを送り出しても、受け手に受信能力がなければ、作品は道の途中で迷子になる他ない。
勉強の足らない人間というのは、いわば電波を拾えない通信機器みたいなもので、音楽に対する感度の低い人間は、素晴らしい音楽を受け取ることなどできない。



それこそクラシック音楽というのは、「高度な音楽的受信能力」を、すなわち音やリズムそれからハーモニーの微細な変化や、それによって表現される楽曲の論理を感受する「耳」を求める芸術だ。



そういう意味では、人々がクラシック音楽を「わからない」と思うのも無理はないと思う。
聴こえるか聴こえないかという極微量なピアニッシモの音を、転調の場面で演奏家がさらりと変える音色を、その背後に流れる作曲家の思考を、拾うための精密な耳は、「日々のたゆまぬ訓練」によって意識的努力的に「作り上げる」ものである。
その「退屈に耐える」ような地道で味気なく孤独な営為をやり抜いた者にしか、真に音楽によって心を動かされ震わされるという体験は起こり得ないのだと思う。


だから、私にはラヴェルの音楽を聴いて「感動する」だけの能力が、まだないのだ、と改めて思い知る。



ああ、悔しい、悔しい、私には、本物を受け取る力が、美しいものを感じる力が、よきものに触れる力が、ないのだと思う度に、悔しくて仕方がないのだ。
これは、私がパリの美術館を巡る中で感じたあの悔しさと同じで、「もっと勉強していれば、この絵をもっとよく理解できたかもしれないのに」という思いに通じているのかもしれない。


そういう私自身の「無能」あるいは「感動の不能」を念頭においた上で、ツィメルマン(とブーレーズ&クリーヴランド管弦楽団)の演奏は、それでも素晴らしいものだと感じた。
クラシック音楽において何がいい演奏で、何がそれほどいいとは言えない演奏なのか、その線引きは人によっても違うし、数値で測定できるものでもないから、主観というものから逃れることはできない。



だからこそ、主観を排することはできなくともなるべく客観性を担保するために、音楽を論じる者はまず楽譜を読み、それから演奏家の意図を読み取る作業は欠かせない。
そして、何があっても演奏家の正しさを前提に演奏を論じるべきだ、と吉田先生は説いておられる。


この機会にいっておくが、私は、演奏を論じて、たとえ結局は悪口に終わってしまっても、音楽家に対して、まず、彼らが正しいのだという立場から、その演奏に近づかない場合は、まずないのである。

「モーツァルトを求めて」


私がいい演奏のひとつの基準とするのは、「最後まで、聴かせる演奏だったか」である。
確かに私の耳は大したものではないけれども、ある演奏を最初から最後まで聴けるかというのは、優れた音楽の必要条件ではないかと思う。
音も美しい、解釈も(たぶん)素晴らしい、でもどこか退屈だ、そういう音楽はなぜか「最後まで聴いていられない」のである。


ツィメルマンのラヴェルは、間違いなく「最後まで聴かせる」演奏だった。
聴く者の手を掴んで離さず、始めから終わりまで繋ぎ止めて、どこかへと連れて行く。
私はその後何日かにわたって5回ほど同じ演奏を聴いたけれども、何度聴いても「もうお腹いっぱい」とはならなかった。



(グールドが演奏するリスト編曲のベートーヴェン「5番交響曲」は、確かに初見(聴)では「おお、すごい」と思うけれども、ではもう一度聴くかと尋ねられると「うーん、もう満腹だから、遠慮しておこうかな」という代物だった。リストについてはまたいずれ)。


この曲を聴いていると、私は自然を、もっと言えば水の流れを想像させられる。
ツィメルマンの演奏、というかおそらくラヴェルのこの曲自体が「流れるような音」でできていて、川の絶え間ない流れの美しさに例えるべきなのか、流麗な音楽と表現したくなる。



その一方で、水の流れが「高所から低所へ」という確固たる物理法則に従っているように、この曲は堅牢な「音楽の論理」によって貫かれている、そのこともツィメルマンの演奏は掬い取って表現しているように思われる。


それから何よりも、ツィメルマンの音が「きれい」だ。
綺麗でもなく、キレイでもなく、「きれい」と言いたい。
音の透明感と豊かな膨らみ、というとあまりに俗っぽいけれども、澄み切った水の底を覗き込む時のような奥行きのある透き通った美しさを感じる。


という話を先生にすると、「そうそう、ツィメルマンは音がきれいでしょ!」とおっしゃっていた。


ツィメルマンのあの演奏には、作り物感というか、作為みたいなものが感じられない。
私が「自然」と言ったのには、良い意味で「演奏者が前に出てこない」感じ、音楽と溶け合って一体になってしまったがゆえに「ツィメルマンの音」がわからない、ということを意味する。



ピアニスト(というか演奏家)には、曲を解釈した上で「この音を出したい」という演奏上の狙った音がある他にも、その人独自の「音の指紋」みたいなものがあると思う。
グールドにはグールドの音が、アルゲリッチにはアルゲリッチの音が、アシュケナージにはアシュケナージの音があって、ひょっとすると詳しい人なら「この音は、〇〇の演奏じゃない?」と、ブラインド(耳だけど)で当てられるのかもしれない。


ツィメルマンの演奏は、演奏家が「この音」と狙って出した音ではなく、もうすでにピアノの中に出すべき音があって、演奏家はそれをひょいっと取り出しているだけ、そう感じるほど「力感がない」のである(夏目漱石の小説にそういう話があったけど、本が手元にない)。


私は自分の感覚がおかしいのではないかと疑って、ツィメルマンの他の演奏を聴いてみた。
ラフマニノフ(この人も先生が勧めていた)のコンチェルト(1番嬰ヘ短調)で、ボストン時代の小澤征爾との共演だ。


感想としては、「やっとツィメルマンの音が聴こえた」というものだ。
まだ2回しか聴いていないし、ラフマニノフの音楽をよく知らないし、何より楽譜が読めないので偉そうなことは言えないけれども、ラヴェルの時に比べればツィメルマンの「音を狙っている」感じが出ているように思われた(もちろん、作為的とか知的に過ぎるということではない)。


たぶんだけど、素人考えでは、ラヴェルの演奏が「あまりにも出来過ぎ」なのではないか、と放言したい誘惑に駆られる。
スポーツ選手があるプレーについて「体が勝手に動いたから、よく覚えていない」と語ることがあるように、ツィマルマンやオーケストラは、集中力の極限領域「ゾーン」に入った状態だったのではないか、と思う。


そういう感想を恥ずかしげもなく先生に述べると、「へえー、そんなふうに聴こえるんだ」とちょっと(たぶん良い方の意味で)驚いてから、「ツィメルマンのピアノはね、ものすごく自然体で、力が抜けてるでしょ」とおっしゃっていた。


終わり


で、本当はラヴェルの他の曲(水の戯れ)をアルゲリッチや日本のピアニストの演奏で聴いて、アルゲリッチの演奏をグールドみたいだなと感じた話があって、なのだけども、流石に紙数が増えすぎたので、今日はこの辺でやめにする。

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