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レジェンズZ-Aとんでも都市伝説

巷では「ゼロの悲報」と揶揄されているらしい、レジェンズZ-Aについて。


WCSでは公式から何の情報発表もなかったそうなので、私が代わりに(?)とんでも仮説を提供いたします。


ゼロの悲報から思いついた。
タイトルの「Z-A」は、「Zero and(or) All」または「Zero to All」という意味では?



そういう暇つぶしの話でよければ、どうぞご覧くださいませ。



①0と1


知らなきゃいけないこと、の話ではない。
BWリメイク、つまりはNの話だ。


コンピュータは2進数、つまり0と1の組み合わせによって、複雑な処理をプログラムしている。
現代に生きる人間の思考も、コンピュータと同じく、バイナリ、つまり「0or1」になっているのではないだろうか。


オール・オア・ナッシングの考え方は、わかりやすい。
「勝者は正しい」「白黒はっきりする」「市場は間違わない」



そういう「何をいっても結局は、最後は勝った方が正義だ(=だから敗者は間違っている)」という考え方は、政治にも経済にもSNSにも、現代社会の至るところにみられる。


他人を安易に値踏みし、だれかを傷つけたとしても、過激な発言をする人がもてはやされる。



0か100かで物事を語る人は、わかりやすい。
人間は、わからないことが嫌いだ。
だから、わかりやすいことを言う人に、自分の思考を委ねてしまう。


でも、現実には、白黒はっきりすることなんて、ほとんどない。
だいたい決着というものは、49:51なのだ。


文化祭の出し物で、出店をやるか、それともお化け屋敷をやるか。
多数決で23対17になり、屋台に決まった。
この時に、お化け屋敷を全く切り捨てることは、デモクラシーではないことくらい、高校生にだってわかる。


「多数決で、出店はクラスの民意を勝ち取った。お化け屋敷は多数決で負けたのだから、やる必要はない」
誰かがこう言った時点で、このクラスの文化祭には23人しか協力者が残らない。

まともな高校生なら、「とりあえず出店をやることは決まりで、その中でもお化け屋敷派の人も楽しめるような要素を取り入れられないか」を考える。
相反するどちらの意見も組み込めるような、「落とし所」を探りながら物事を決定していくことを学ぶために、学校行事は存在する。



なのに、高校生にもわかるようなことが、大人にはわからなくなる。
「勝者は常に正しい」と敗者を舞台から追い出し、100対0に決めつけてしまう、そんな風潮が支配的になっている。


100%正しい考えがないように、100%間違っている考えもない。
0と1の間にある無限の広がりを感じ取る機能を、知性と呼ぶ。


ゲームフリークがZ-Aという作品の先に、BWリメイクを意識しているとすれば。


BWにおいて最も重要なテーマは、「この世界には、はっきりと白黒つけられる現象などない」だった。
ポケモンを人間からの解放すべきという主張も、ポケモンと人間は共生できるという主張も、どちらも一定の正しさを含んでいる。


All or Nothing の考え方は必ず、人間の暴走をもたらすか、排除された側の復讐を生む。
だから、0か100か、ではなく、0と100の間を生きること。
世の中には「程度の差」というものがあることを知ること。


Nは数学の天才という設定がなされている。
数学の世界における原則は「論理の無謬性」だ。
ある定理が50%だけ正しくて、残りの50%は誤りである、ということはあり得ない。


数学の世界における正しさとは、0か100かしかあり得ない。
Nの頭脳は、数学的、バイナリの思考で成り立っていた。



理論の世界を抜け出て、現実の世界で生身の人間とぶつかり合った時、Nは初めて「この世界には中間が、白と黒の間が、ある」という真実を知ることとなる。


成熟とは、正しさの海と誤りの川のあわい、汽水域を泳ぐことだ。
49:51を、0:100に置き換えてしまわない、勇気と我慢強さだ。
白によって黒を洗い流そうとも、黒によって白を染め上げようともしない忍耐だ。



それがBWという作品、そしてそれ以後の作品を通じて、製作陣が伝えたかったことだと思う。


②無から有へ


芸術とは、創造する行為、創造された作品を指すのだろう。
カロス地方、特にZ-Aの舞台となるミアレシティは、まさに「芸術の都=パリ」がモデルとなっている。


創造とは、無から何かを生み出すことだ。
キリスト教では、神は無の闇から光を生み、天と大地を分かち、生命を作り出した。
ポケモンの世界を生み出した、創造神アルセウスのごとく。



ゼロは、すべての始まりである。
神が7日間でなしえた天地創造、「世界」を生み出すことこそが、芸術の起源なのだ。


ミアレシティの都市再開発プロジェクトを、人間とポケモンが共に生きることのできる「世界」を「創造」することだと捉えると、「Z-A=Zero to All=無から全(有)へ」の意味はあながち間違っていないと思われる。


キリスト教以後の西洋の芸術の根本にあるのは、限られた命を与えられた人間が「永遠」を手にすることだ。
肉体は滅びても、魂は天国(または地獄)で永久に生きる、というキリスト教の救済思想は、芸術においても深く根を下ろした。



いつの日か消滅する(無=0になる)「身体」を用いて、永遠に残る「作品」を生み出すこと。
幸運にも永遠の命を与えらえた作品は「All=全き存在」として、1000年もの(それ以上の)時を超えて、作者に代わり後の世界を生きる特権を与えらえる。



アルセウスが自身の代わりに分身を主人公に託したのは、製作陣による芸術のメタファーだったのかもしれないと邪推してしまう。


たとえ芸術家でなくとも、人間は次世代に「世界=共同体」を引き継ぐことで、擬似的な永遠を獲得することができる。
「世界=共同体」という作品の中に、名もなき市民の息遣いは通奏低音のように鳴り響いている。



私たちの知っているシンオウ地方は、デンボクやシマボシたちが築き上げ、守り抜いたヒスイ地方ではなかったか?


これは余談になる。
パリの街を歩き続けた(毎日30km)ある日、私はロダン美術館の中庭の芝生に寝転びながら、「芸術とは、思い出なのかもしれない」と直観した。



有限の命を生きる中で、忘れたくないこと、自らの死と共に闇に葬られては困ること、どうにかして後世に伝え残したいこと。
自分の目がとらえたこの世界を、「私」というひとりの人間が生きた「思い出」を、残すために芸術はあるのだ、と。


人生の思い出を他者に語り残すことを許され特権的な人間を、私たちは芸術家と呼ぶのだろう。
特権なき人々は、より良き世界=共同体を作り上げる努力と営みの内に、自分が生きた証を見出す。


すべてのポケモンがアルセウスである必要がないように、すべての人間が神になる必要はないのだ。


③ジガルデ(Z)とアルセウス(A)


ふと思いついただけで、まだ考えがまとまっていない。
ZygardeとArceus の間に、何か繋がりが示唆されることはないだろうか?


(編集後記:都市伝説級、というかほとんど「こじつけ」めいた話になったので、温かい目でご覧いただきたい)


アルセウスは、「天空の柱」で出会えるように、天地の「天」に属する存在だ。
一方で、ジガルデは「終わりの洞窟」の奥深くに生息する、「地」の属性を持つ存在である。



もっと言えば、アルセウスが「光」に「照らされる(テル・ショウ)」のであれば、ジガルデは「闇」に包まれているのではないだろうか?


もはやこじつけになるけども、「ミア」レシティと「闇(ヤミ)」は、似ていないか?


SVのバトル要素「テラスタル」も、間違いなく「光」の側に属している。
そう考えると、アルセウスとSVの間にも、うっすらとした道筋が浮き上がってくる気がしないではない。


テラスタルは、大穴=地下深くから湧き出るエネルギーによって生じる現象だ。
レジェンズ・アルセウスにおいて発生した「時空の裂け目」は、空から地上へと降り注ぐ異常現象と捉えられる。


天→地(地→天)へのエネルギーの流れ。
天に属するものと、地に属するものの対比。
これがZ-Aにおいてどのように表現されるのか?


そう考えると、アローラ地方はソルガレオ・ルナアーラ(=天の存在)とカプ系土地神、ガラル地方も空から降り注ぐガラル粒子と地下のポケモンの巣穴、というように、ポケモンシリーズには一貫して「天と地」のモチーフが採用されているのでは?


※ザシワンのお散歩の時間になったので終わりです

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