ぜんぶマネの黒色のせいだ
なるほど著作権も難しいものだなあと、自分の知らない領域に詳しい人の知に首を垂れる。
そしておやこんなところに脇道があるやないかとほとんど条件反射的にするする潜り込んでいく。
ポケモンもパルワールドの話もしないのですみません。
エドゥアール・マネといえば草の上とかオランピアとかバーにになるのかもしれないけど私にとってはベルト・モリゾを描いたあの絵なんだという話をいつも通り勝手にする。
マネがベルト・モリゾをモデルにした絵は、パリのオルセー美術館に展示されている。
それほど大きな絵でもなく、美術史的に重要というわけでもないのだと思うたぶん。
たしか中学校の美術の資料集に載っていたような覚えがあってそれで知っていたのかもしれないけど確かではない。
オルセーでもその絵の前に人だかりができるようなことはなく。
ルーヴルのモナ・リザなんて、ダ・ヴィンチさんは実は500年後の人間の後頭部を描きたかったのかもしれないと勘ぐったりしたほどだったのに。
私はひとりでその絵の前に立ってまじまじと眺め続けた。
というか磁石に吸い寄せられるように、絵の方が私という人間を捉えた。
本物の絵(に限らず芸術作品)にはなにかそういう、主体と客体の逆転を起こさせる力がある。
私が絵を見るのではなく、絵の方が私にその絵を「見つけ出させる」ように促す、私という人間をくるっと裏返しにする魔法が使えるらしい。
マネのすごいのは黒色である。
ピカソのすごいのが線であるように。
思想とかテーマとか構図とか全体のバランスとかそういう話はよくわからない。
絵画とはつまるところ「線」と「色」だ、といったのは小林さんである。
マネのブラックには光がある。
黒色とは光の欠如であり、光のない世界に黒色は存在しない。
神が「光あれ!」と宣う以前の、光を飲み込んでいる闇の色が本当の黒なのだと知る。
濃く深く密にして眩いばかりに透明な黒色を教えてくれたのがマネだった。
なるほど、ベルト・モリゾの知性に満ちた顔立ちには、たしかにこの黒が必要だった。
私は今でもこの絵の中に描かれたずいぶん昔に死んでしまった女性にほとんど恋心に近い思いを感じないではいられない。
ベルト・モリゾは少なくとも日本では一般的には有名な画家の部類ではないと思う。
エドゥワールの弟のウージェーヌ・マネを夫にもち、ルノワールやモネといった印象派の画家と交流があり、とても社交的な人物だったようだ。
私はパリでモリゾの絵が好きになった。彼女を描いた絵も、彼女が描いた絵も。
マルモッタン・モネ美術館にはモリゾの作品だけを飾った小さな部屋がある。
この世界に日常の優しさというものがあるのならば、モリゾの絵はそれだと思った。
再び小林さんを引き合いに出すならば、この世界には大切なものなどない、何かを大切に思える人間がいるだけだ。私は何かを大切にしようとする心を日常の優しさと呼びたい。
モリゾの素晴らしさは、これといって見るところのない平凡な風景の中に潜む「かけがえのなさ」をそっと掬い取り、それを大袈裟に誇張することなく「そのまま」私に差し出してくれたことだった。
凡庸なる非凡は芸術家に不可欠な資質だと思う。
ユニバやディズニーランドに行った日はだれにだって「思い出」になる。
今この当たり前の時間にこそ懐かしさを感じられないならば、人生とは実に退屈で味気ないと私は思う。
いや、マネもモリゾも、間違いなく非凡な画家にして人間だった。
私は非凡さの中に凡庸さを見ているのかもしれないと思った、そんな話。