五日目|どこまでが自己責任?
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Twitterで「いしきたかい」って名前のリストを作った。意識高いひとを見てればなんとなく意識高くなるかなって目論見。
小さな感想
暑すぎる。地球が俺を殺しにきてる。実際夏が好きな人と夏が嫌いな人ってどっちが多いんでしょう?自分は汗っかきなので夏アンチなんですけど、イベントとか好きな社会性高めの人は夏ファンなんですかね?
本題
どこまでが自己責任?どこまでが社会のせい?
有名人が何か問題を起こすと、決まって作品の公開停止とか事務所・配偶者・親の謝罪あたりの火消しが行われる。
また、最近アメリカでは差別的表現を含む大学のカリキュラムについて
過去のトラウマを復活させる「トリガー」になるとして、これらの作品が出てくる授業を避けることを選択できる。(http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2015/12/19/210618)
みたいなことになっているらしい。
これら二つの事例に共通するのは、「責任の範囲はどこまでか?」。前者なら「有名人の起こした問題についてどのくらいの関係の人まで謝罪する責任をもつのか?」ということで、後者なら「個人の心理状態はどこまで社会が責任を持つのか?」ということになる。
後者について自分の考えを書き残す。後者の例は社会が引き起こした差別が個人に与えるダメージの問題なので、当然そのケア、対処、再発防止には社会も責任を持つと考える人もいると思う。
しかし基本的には、社会で特別に認められた(政治的な)正しさに反するもの以外は、現在でも個人の責任で対処することが求められている。たとえば私は渋谷を歩くたびに強い心理的なストレスを受けているけど、それを社会に解決しろといっても妥当性はないし、誰も気にかけない。
こう考えると先のアメリカの例は、社会が個人の心理状態をケア「してくれる」例外状態であり、そのような例外には当然「個人の心理状態はどこまで社会が責任を持つのか?」と疑問を投げかけたくなる。
話を戻すと、個人的には責任は個人一人だけにあると考えている/感じている。自分のしたことには自分で責任を持つし、自分の心理状態は自分でケアすべき(するしかない)。
これは多分にポジショントークである。自分が持つ属性がまあまあ強いせいでつらさを社会のせいにできないし、社会が配慮してくれるとも思えないために、自己責任を強く感じていることも確かだ。
現実には特定の項目については社会が配慮してくれる状況がある。しかしそれでも「本来自分が対処すべきであるが、社会が特別に配慮してくれるのだ」と考えるべきだと思う。
過度な自己責任論は社会を考慮しなくなり不平等や不公正がはびこることになる。一方で社会の過保護化(=責任の延長)は逆に個人を考慮できなくなり(個人と社会の境界が薄くなる)集団の暴走、過激化へ向かうのではないか。先の例のリベラルな教授がリベラルな学生からの告発を恐れる事例なんて、ちょっと前の日本の「総括」とか「自己批判」にしか見えない。
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