14日目|フェミニズムへの疑問
今日やったこと
TOEFL単語
輪るピングドラムを観た
ゲーム
新しいこと
カールスジュニアで粘った。ドリンクバーで。
小さな感想
ちょっと遅めの昼ご飯を食べるついでに、ドリンクバーで長居しちゃおーーと思ってカールスジュニア(ハンバーガー屋さん)に行った。その店舗は二階建てで、普段家族と来るときは下の階で食べていたんだけど、コロナ対策で下の階は閉鎖されてた。
席数制限はわかる。対面になるカウンター席とか、テーブル席の片側を閉鎖して飛沫拡散を防ぐ。ただ、そうでもなくシンプルに下の階まるごと閉鎖するってのはなんの意味があるんだ。席数増やしたほうが密にならなくてよさそうなのに。
まあハンバーガーもおいしかったし、コーラもいつもどおりのさわやかさ、冷房もしっかり効いてたんで大満足。ラブ。
本題
「「女とはだれなのか」を最終的に規定することは拒絶するが、かといって女というカテゴリーそのもの、性差自体を撲滅する方向にも向かわない。それは、既知の者も未だはっきりした形をとっていないものも含めた女性たちの多様なありかたをあらかじめ「女」から締め出すことなく、しかし、同時に「女」というカテゴリーに対してなされる差別や抑圧に対して「女」として抵抗する力を捨て去りもしないフェミニストの政治を、可能にする」
世界哲学史8 p119
本質主義:女というカテゴリには、なんらかの不可欠な共通性=本質をもつものだけが含まれるという考え。この考えは、集団の範囲を明確にするため社会運動を推進するには必要と思われた時期もあったが、さまざまなマイノリティ属性を持つ女性により批判された(その本質とやらは、中上流階級の異性愛女性の特徴にすぎないのではないか?といった指摘)
女とは誰かを規定することは、本質主義に陥り女の可能性を見落とす可能性があるから避けたいというのは理解した。そしてこの理論が多様な差異を持つ女性の、フェミニズムへの参加を可能にしてきたということも分かった。
女というカテゴリを規定せずに女として差別に対抗することは可能なのか?これに対する答えは本書ではイエス。上の引用中部くらい、女というカテゴリーを開かれたものとしておくことで多様なありかたを排除しないことが可能になるという。
しかし、ここで疑問が生じた。女というカテゴリが変化するものだとしたら、批判される側の男は「女でないもの」として定義されてしまうのではないか。
さらに、いくら学者が女に本質主義的な共通性を決定しないように注意していても、実際に運動に関与する女は本質主義を採用しているのではないか?(大体の場合それはセックスで、そのため最近トランスジェンダーを含めるかどうかで内ゲバしている)
さらに悪いことに、女カテゴリの可変性を利用して、女から特定の女ーフェミニズム運動に批判的な女ーを排除してまでいるのではないか。名誉男性!
名誉男性というタームからは、ツイフェミにおいて女を被害者であることと生物学的女であることで定義している(したい)様子が見える。
批判点は二点。
1.被害を受けていることをアイデンティティにすること自体かなり不健全。結局それは「加害者でない」として女を定義することになりはしないか?また、加害者として定義される男を過度に単純に悪魔化することになるのではないか。女の中の多様性に注目しても、批判対象の多様性を見落としていては、結局有効な批判たりえない。フェミニズムの批判する男像はあまりにも成功者・性的強者のものに偏っており、ほとんどの男性批判はnot成功者、性的弱者にとっては的外れになっているように見える。
2.やはり学者がリードすべきではないのか。トランス排除の際にも思ったが、運動という大人数で行う活動で学者レベルの繊細な知識を前提とするのは難しい。旗を持って一軍を率いるべきとまではいわないけど、やばい方向に行ったら積極的に方向修正を促すくらいはすべきではないか(その役割は「名誉男性」に任されているようにも見える)。
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