四日目|育ち
今日やったこと
TOEFL対策(単語だけ)
だけ。進捗が牛。
新しいこと
友達を映画に誘った(二回目だけど、人を誘うなんてほとんどしたことがなかったのでこの枠。意外とすんなり通るものだなあ、相手によるだろうけど)
小さな感想
ずいぶんひさしぶりに暮らすZOOMなるものに参加した。やってみて思い出したのだけど、やっぱり合わない人ってのはいますね。いや、語れるほどの人間関係を築いたことはないのでサンプル数は少ないけど、大学の人と中高の人はやっぱり違うよね。
本題
コロナ関係。クラスターフェスなるものが開催されていたらしい。マスクを着けずに集まってなんかアピールしようって会みたい。個人的な感想としては「へえーすごいこと(ほめてない)やる人もいるもんだなあ~」くらいにしか思っていなかった。ところが自分のある知りあいにとってはだいぶアタマにくる案件だったみたいで、わざわざTwitterで〇ねとまで書き込んでいた。
あとフェスの前だったか後だったか、なんか山手線ノーマスクチャレンジみたいなのをやってる人もいた。これもほとんどフェスと同じ感想しか持たなかった(自分は渋谷も山手線もその時利用していなかったので)。ところがこれに対してもどこかのアカウント(たしか医者だったような気がするようなしないような)が、「マスクをつけても自分の感染予防にはそれほど効果がなく、むしろ他人に移さないようにするためなんだ」みたいなことをTwitterで言っていた。
正直いって、知り合いと医者の書き込みの方が自分には不思議なものに見える。それは自分が世の中にはいろんな人がいて自分ごときにはとても思いつかないようなこと(婉曲)をする、しでかすものだと思っているため、フェスとか側の悪さを低く見積もってしまっているからでもある。
だけども一番大きな違和感は、知り合いと医者の書き込みは何だか自分以外の存在への害を重大にとらえていることからきている。言ってしまえばフェスやろうが山手線ゲーム(観戦爆発ver)をやろうが、自分が使わなきゃ感染することはない。つまり両者は個人の損得レイヤーでキレてるわけではなく、社会に対する害を真剣に憂慮して怒っているのだと思う。
この仮説に沿えば、自分は社会への帰属意識が低くて、二人は社会への帰属意識が高く、その差が社会に対する害であるフェス・山手への反応への差を生んでいる。
なんで自分は社会への帰属意識がないのか。自分が帰属意識なんていらないなと思った時期は、「社会なんて気にしても、誰も自分のことを気にかけてはいないな」と確信できたときだった(これは無敵の人の発想だし、その意味で「彼」の行動は理屈の上で理解することはできる」)。二日目に書いたとおり親しい人間がいない自分にとって社会といわれてものっぺらぼうの集団にしか見えない、というより自分は社会になじめていない透明人間みたいだと劣等感を感じていた(どうして自分は人間関係を構築できないんだろう?)。それまでは赤信号もしっかり守るタイプの人間だったが、この劣等感が先の確信になって、まずは自分のことを考えようと思えるようになった。
これだけ書くとただの自己中心的なやつだ。だけどこの自己中さを得てからむしろ社会に対して適合できるようになった気がする。身だしなみを整えること、だいたい「みんな」に合わせた発言をすること、求められているキャラに合わせていくこと、そこから一歩進んでどう思われたいかから逆算した(そんな立派に考えたわけではないけど)振る舞い方をするのに、抵抗がなくなっていった。
言い換えれば、社会を絶対的なルールとしてとらえていた昔から、社会をゲームの対戦相手のように自分の状況を良くするための対象としてとらえられるようになったということだと思う。こう思えるようになってからコンプレックスや対人関係について少し冷静になれた気がする。
明日やること
TOEFL対策ぜんぶ
小説を読みきる(明日の日記ネタになるはず)
小説を買う
マクロ経済の勉強にとりかかる