自己防衛としての欠点開示|合宿免許場から
まえおき
合宿免許を取りに来ている。自分は人間関係を作ることを学ばずに大学に入ってきちゃったから、こんなに多様な人間と一緒にいる時間は久しぶりだ。
ただ元来のコミュ障のせい、あるいは相手のコミュ障のせいで、結局いつもと同じように失敗を重ねている。いつも通りの失敗で、いつも通り少し傷つき、そしていつも通り忘れていく。ただ、こうやってnoteに書く手間を取れば、多少は後に生かせる「なんか」を覚えていられるかもしれない。同質、教習員、その他他人
同室の友人
同室の友人とほとんど会話してない。ビジホの同じ部屋に泊まり、食堂でもビニールスクリーン越しに顔を合わせてメシを食っていながら、ぜんぜん話してない。こんなに近くにいるのに、心は遠く離れている...とかではなく、シンプルに合わないんだろう。
男性の方には理解されると思うけど、「友達」とひとことでいっても、そこには多分「仲が良い」と「信用できる」の二つの評価軸がある。「仲が良い」には面白いとか、話が盛り上がる、あるいは落ち着くとかも要素に入るかもしれない。
一方の「信用できる」は全く別の問題で、遅刻しないとか嘘をつかない、まともであるとかで決まって、このポイントが高いと男友達から「いいやつ」と評価される。
「信用できる」ポイントがあれば一緒に遊びに行くことはありうる。それは互いの面白さを見出すためのものである場合もあるし、単にいても害がないなら人が多い方がいいか、くらいのゆるさでつるんだ場合もある。
ただ、「信用できる」だけでは仲良くなれない。「いいやつ」にしばしば彼女がいないのは、その人が人から信用されるふるまいばかりで仲良くなる仕方を知らないからだ。
けれども、お互いがお互いに興味をもって質問すれば、おそらく誰でもそれなりに「面白い」要素を持っているのだから、相手の面白さを引き出せる。
活動的ならいろんな経験をしてるだろうし、逆に内向的ならいろいろこじらせてるだろう。こじらせは本人がうまく喋れればかなり面白いコンテンツになる。
ただ質問にうまく答え仲良くなるには、自分をコンテンツ化する能力が必要だ。それは必ずしも自分を客観視して分析し、わかりやすく訴求するとかそういうことではない。自分の長所短所、性格、考えを、相手の発言に合わせた形で提出するということだ。あるいは「ボケ」と言い換えてもいい。自分をちょっと矮小な存在に見せつつ、そこに面白みを見せること。
自分と同室の友人はお互いがお互いのことを「信用できる」と思っている。これは確かだ。しかし、友人はどうも自分を良く見せようとしている。自分の欠点を開陳するとき、自分の長所を際立たせるための材料として、もしくはあまりにもささいなことでしか、それを語れないようだ。
だいたい、この種のボケは守りに入っている。自分が認めた欠点以外を見てほしくないという自己防衛なのだ。
具体例。高校のテスト。友人Aが言う、「いや~~~マジで数学しくった、ほら見てよこれ、23点!いや~~~一問目の(2)でさ、考えすぎちゃって「あれ、こんなシンプルなやり方なわけないよな」とか思っちゃってw、そこで時間使いすぎたわww」
この場合、Aは自分の失敗をさらしている。しかし、多分なんとなく読者の方にも感じてもらえているように、おそらくこのAはかなりプライドが高い厄介者だ。
まず数学でしくったと先に言うことで、いじられる準備をしている。この一言に「俺は失敗を自覚しているから、厳しくいじってくるな」と、「数学以外をいじってくるな」の二つをこめている。これによりAは、自分の見せた=想定済みのいじりしか受けず、さらにそのいじりも自分がさらした欠点に基づくという事実によって、プライドを傷つけない。
(2)で時間を使い過ぎたというのも同じような効果をもつ。(2)以外をいじるな、俺は失敗を自覚しているぞ、というサイン(そしてこのいじってくるなというメッセージが伝わりすぎた結果、級友には「言い訳がましい」と言われることになる。)
もちろんあらゆるいじりはこの作用をもつ。芸人が不細工ボケをかまして平気なのも、この作用のおかげだ。ただし、重要なのはその深さだ。どこまでなら、どんな汚いところまでなら、自分を他人に差し出せるか、コミュニケーションの場に提出できるか、その懐の深さが問題だ。
あまりに深くえぐりすぎてしまい本人の明るさがカラ元気に見えるようだと、痛々しい。「不細工だから」と自虐する人の対処に困ったことのある人も多いでしょ。ではどうすれば深いところまで見せられるのか、それはひとえに本人の明るさとユーモアによるのだ。(続き明日)