じこぶんせき
斎藤環先生による「社会的引きこもり」の定義
「二十代後半までに問題化し、六か月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」
私はこれに半分当てはまっている。問題化していないことと自宅にひきこもってはいない、ひと月だけバイトし、夏に免許合宿に行った点は違うが、六か月どころか一年以上にわたって友人などの人間関係による用事はないし、ほかに精神障害をもっているわけでもない。
定義以外にも、社会的引きこもりの典型的な症状として斎藤先生があげるものの多くに当てはまっていた。
他人という鏡がないためにおこる全能感と不能感の連続、家族との密室的な関係、自分はひどく傷つけられてきたという感覚、去勢できていないこと。
斎藤先生は社会的引きこもりの治療法として、個人、家族、社会の三者間の接点を、家族社会、個人家族、社会個人の順につなぐことだとしていた。
前者二つはできていると思う。母とは適切にコミュニケーションを取れているし(父は離婚してもうずっと会っていない)、家族としては社会とコンタクトを持っている。
最後の接点、個人と社会の接点のつなぎ方について、斎藤はアルバイト、カルチャーセンター、パソコン教室、英会話学校、料理教室、ボランティア活動、自動車教習所を上げていた。
しかしわたしの問題は、この例で見るような社会との接点が欠けていることではないと思う。
私は社会っぽいコミュニケーション、例えばレジの接客、店員との会話、教習所での会話などには、全く不便を感じていない。しばしばいわれることだが、いわゆる「陽キャ」は授業中の活動(発言、グループディスカッションetc)で普段の様子からは考えられない、借りてきた猫のようになることがある。一方「陰キャ」はその逆に、授業中だけ活発になるという場合がある。私の場合も完全にこれに当てはまっている。
私は社会的な役割を演じることに対してはほとんど苦労を感じないが、そこで成立しているコミュニケーションは相手を単なる役割・ロボットとして扱うパターナリスティックなもので、他者とのコミュニケーションにはなっていないのではないか。
これが私が友人、もちろん恋人なども含むあらゆる人間関係を全然構築できない理由だと考えている。
ではどうしたらよいのか?相手をパターンとして扱うのでない形でのコミュニケーションを、どうやったら持てるんだろう?
問題は自分の中では二つに分解できる、一つは場と知識がないこと、二つは私に「すきなもの」がないことだ。
一つ目はそのままで、私は友人が得られるような場も友達の作り方も全く知らない。「知り合い」「よっ友」はいても、休日に遊ぶような友人はいないし、人はどこでそんなに仲良くなっているのかも分からない。
例えばゼミ、バイトに行ったとする。私はそこで「組織に求められる行動」をして、そのまま帰ることになる。ゼミであればレジュメを作りプレゼンをし、テーマについて議論する。帰る。バイトであれば、出勤し、着替えて、規定時間まで働き、着替える。帰る。
斎藤先生の本でも、当事者のクラブに参加し親密な友人が得られたという例があった。しかし私のソーシャルスキルがその人より著しく低いからだろう、「どこかに行けば、友達ができる可能性がある」ということもほとんど信じられない。友達や恋人なんてものは別の惑星のことのように自分とは無縁なものに感じられる。
もう一つの問題が、好きなものがないことだ。小学生のころ父に将来の夢を早めに決めるんだといわれたことを覚えているが、これまでの人生で将来やりたいことどころか「夢中になれるもの」を持つことができなかった。
斎藤先生は釣り堀に出かけて社会復帰を成した人の例を挙げていたが、自分には彼にとっての釣りのような自分のアイデンティティにもなる(私は釣りが好きです)ほどにすきなものが一つもない。それが一つでもあれば、同好の士がいる場に出向けば友人ができるのかもしれないが、それがないのでどこへ行くかの検討もつかない。