【エッセイ】虚栄心の殺し方
僕は質問をするのが苦手だ。
特に学術的な場での質問となると、自分が的はずれなことを言っていないか、自分の質問が有益なものか、自分の知識のなさが露呈していないかなどと考えてしまい、不安に陥る。
そもそも質問というのは、相手に対して自分が気になることを聞くためにする行為であるはずだ。それにも関わらず、僕は相手に認めてもらうため、相手に失望されないために、質問内容を熟考している。
そうなってしまうのは、普段から自分が知識人ぶっているからだと最近気づいた。
「他者から賢いと思われているなら、自分は常に賢くなくてはならない」というように、他者から見た自分で自己を構成してしまっている。しまいには他者から見た自分に自分自身が追いつけなくなってしまい、虚栄を張るしかなくなるのだ。
僕以外にも虚栄心に囚われている人は多いのではないだろうか。
現在、自分の顔を加工した写真や、好印象を与える日常の風景だけを切り取ってSNSにアップする人たちがたくさんいる。今となっては当たり前であり、べつに悪いことではない。しかし、それがエスカレートし、過度な加工や見栄を張った嘘の投稿などを繰り返すようになると、他者から見た自分と本当の自分がかけ離れてしまい、自己嫌悪に陥ったり、他者に不信感を抱いたりしてしまうようになる。
そして、その虚栄心で作った仮面もいつかは必ず剥がれてしまう。
まさに今日、僕はその仮面が剥がれた。
質問を最初からしなければ自分の知識のなさが露呈することはない。そう考えていたが、今日の研究会では半強制的に発表者に対して質問をしなければならなくなり、見事に自分の知識のなさが周囲に露呈してしまった。自分のアイデンティティがボロボロと崩れ落ちる感覚を味わった。
いま振り返ると、自分のアホさが露呈してよかったと思う。
風船のように膨らむばかりの虚栄心もいつかは割れてしまう。いつかは他者の中にある「自分」を自分の中に引き戻さなければならない時が来る。その時が今日だったのだ。
自分の弱さを自覚しているからこそ、等身大で生きることが怖い。
けれども、そのひ弱な自分を愛することができたのなら、自分の中にある虚栄心をも殺せるのではないだろうか。他者の目から解放されると、自由になるだけではなく、他人の弱さにも寄り添えるようになるのではないだろうか。
今日からは知識人ぶるのはやめて、等身大のままの自分と向き合っていこうと思う。その上で、その理想の自分に少しでも近づけるように努力していこうと思う。