イナーワールド 第2話「蓋世の波」
第2話 蓋世の波
「みんな見て。エリ、悪魔になっちゃった」
佐伯エリが背負う黒いミニリュックから、小悪魔っぽいコウモリの翼が飛び出る。
濡羽色にピンクのメッシュが入った髪を高めのツインテールで結ぶ彼女は、ミニリュックから生える翼とそのツインテールを連動させるように、その場で飛び跳ね、上下に動かした。
「ねえ、これ可愛くない?」
何の前触れもなく、佐伯エリは俺に視線を移し、蠱惑的な表情を見せる。
「か、かわいいと思います」
「でしょでしょ」
俺の知っている佐伯エリはもう少しおとなしい印象だった。髪や服の着こなしこそは派手だが、普段は一人で読書しているところしか見たことがない。彼女と話したのもこれが初めてだった。
「可愛いとか可愛くないとかどうでもいいから。その羽はどういうトリックなの?」
眉間にしわを寄せた三日月が佐伯に詰め寄る。
「可愛いかどうかが一番大事に決まってるじゃん。それにエリのこれはねトリックじゃなくてキュートな魔法だよ」
「あっそ、べつにどうでもいいわ」
「うわ、なんだこれ」
続いて、一人の男の身体が見る見るうちに蜘蛛のような姿に変形してしまった。アカリの元へ行こうとする三日月を行かせないように止めていた男だ。その男とはあまり絡んだことがないため、名前はわからない。とりあえずは蜘蛛男と呼ぶことにしよう。
「助けてくれ、なあ。俺は蜘蛛が苦手なんだ」
蜘蛛男は必死に自分の身体を搔きむしっていた。
外は小雨が降っていた。天井から零れ落ちる水滴が床を湿らせ腐らせる。古い校舎だからということもあるだろう、蜘蛛男の足が床に食い込み、いくつもの小さな穴を開けた。
「なああ、誰か助けろ」
「うるさいの。まだわしの説明中じゃろ」
ステラに脛を蹴られ、蜘蛛男は元の姿に戻った。
「翼も蜘蛛も全部それは特殊能力じゃ。この世界が歪んでからそれぞれの潜在能力が発揮できるようになったんじゃ。自分に深く関係しているもの、トラウマが一番多いじゃろうか。とにかく自分に関する何かが特殊能力として具現化できるようになったようじゃ」
いつの間にか三日月の手にはリボルバーが握られていた。
「私の能力は銃の生成なのね」
「おっかねえ、暴力的な三日月にピッタリだな」
三日月は即座に前島のこめかみに銃口を押し付ける。
前島はぶるぶる震える唇で三日月に謝っていた。
「それじゃあ殺してはならない者には気をつけて殺すべき元凶を見つけるがよい。ちなみにじゃがその元凶はまだ自分が元凶だと自覚しておらんようじゃ」
ニヒヒヒと気味の悪い笑い方をしたままステラは姿を消した。
委員長である吉田を中心に俺たちは状況整理とこれからどうするべきかを話し合った。
事前にこの廃校舎に来ていたみんなの証言を整理すると、まずこの廃校舎は町はずれにあり、自分たちの倒壊した学校からそこまで離れていない場所にあるという。ここは校舎の一階で二階まである。校舎の外には謎のバリアが張られており、外に出ることはできない。
俺たちの間で、この世界の元凶となった殺すべきターゲットのことをⅩ、殺してはいけない者をYと呼称することとなった。そして、今のところ誰がXで、誰がYか、全く手がかりがないとのことだった。
「それじゃあグループ分けをして手がかりを探しに行こう。くれぐれもXが誰かわかるまで互いを殺しあったらだめだよ。もしかしたらYかもしれないんだから」
ここでも委員長の吉田はリーダーシップを発揮し、みんなを上手くまとめていた。
しかし、なぜだか吉田の様子がおかしかった。
少しけだるそうで汗を大量に搔いている。汗が滝のように流れるという比喩表現があるが、それをそのまま表した様子だった。
「吉田、大丈夫か」
周りのみんなが心配の声を吉田にかけるが、その声がまるで届いていないかのように、無理やり作った笑顔を絶やさないまま、グループの振り分けと作戦を語っていた。吉田が心配で、彼の話は耳に入ってこなかった。
汗はついに吉田の脳天から吹き出し、広間じゅうに散らばった。もはやこれは汗ではない。
緊急事態でも冷静だった吉田は白目をむきながら発狂し、暴走機関車のように走り回っていた。頭から絶えず蒸気のように水を噴き出している。
水が吉田のトラウマか何かだったのか。それはわからないが、彼のなかで目覚めた特殊能力が暴走し、自分では制御できない状態になっていた。
やがて彼自身が巨大な水の塊となり、波となって俺たちが固まっている方へと襲い掛かってくる。その波が人間の手を模した形に変化し、たまたまターゲットとなった俺は、なすすべもなくその手に捕まってしまった。
水の拳に握られ、壁に押し付けられる。液体であるはずなのに、俺の身体はその中に縛り付けられ身動きが取れなかった。鼻と口から水が流れ込み、息もできない。
「ダスケテダスケテ」
吉田の叫びが俺の体内から聞こえてくる。
水の拳から分離するようにして、吉田の巨大な顔が現れた。額の中心にある赤い点が、ここが弱点だというばかりに光っていた。
「ウチシマー」
三日月は咄嗟に銃口を吉田の額にある赤い点に向けた。
俺も俺で一度発動した透明になれる能力が使えるか試してみたが、やはりだめだった。三日月に頼るしかない。
息が続かず、意識と視界が朦朧とする。今日の昼に見た夢のようだ。まさか夢が現実になるとは……。
「でももしかしたら内島辰くんがXかもしれないよ?」
佐伯エリは黒い翼をパタパタさせながら三日月の顔を覗く。
「うっさい。そんなの関係ないから」
「エリは関係あると思うけどな」
「あいつには借りがあるから」
「だからって委員長を殺しちゃうのー? こわー」
「じゃあ何もしないで見とけって言うの?」
「いやウソウソ。実はエリも委員長のこと苦手だったんだよねー。表では優しくて頼れる委員長を演じてたけど、裏では気持ち悪いメッセージ送ってくるしクラスでおとなしめの子にはゴミのような扱いをしてくるし」
「だからなに?」
「殺されても仕方ないよねって話。それにエリは人が人を殺すところ見てみたいだけだからどっちでもいいよ」
佐伯エリは特徴的な鋭い八重歯をむき出しにしてほくそ笑む。
「あっ、ちなみに委員長、三日月楓ちゃんのこと好きだったみたいだよ」
「関係ない」
そう言いつつもリボルバーを持つ三日月の手は小刻みに震えていた。
周りの音がどんどん遠くなっていく。いまだに聞こえてくるのは吉田の叫びだけだった。吉田の水に対しての恐怖がダイレクトに伝わってくる。
幼少期に川に流された経験、その経験からくるトラウマに付け込んで水攻めのイジメをされた経験、プールに入りたくなかったが無理やり体育教師に入れられた経験、様々な吉田の記憶が断片的に俺の脳内で再生される。
「ミルナミルナ」
ドロッとしたヘドロのような塊が腹の中に沈殿する感覚。
苦しさと気持ち悪さが混在する中、死も鼻先まで近づいていた。
俺の意識が途切れる寸前で、吉田は赤い点を中心に弾け飛び、跡形もなく霧散した。
「危なかったね、内島辰くん。おそらく同い年だし辰くんって呼んでもいいかな?」
吉田を殺し、俺を救ってくれたのは、一人だけ制服が異なる白髪の青年だった。
どういう能力かわからなかったが、指を鳴らして何か不思議なことを起こしたらしい。
「強いんだね。エリ、強い人すきー。お名前はなんて言うの?」
「榊原光だよ。よろしくね」
「でもどうして委員長が殺してはいけないYってわかったの?」
「ただの直観さ。そのまま野放しにしていても危険なだけだったし、それに僕は辰くんの方が重要だと考えているからさ」
「なんでなの?」
「直観さ」
なぜ彼は俺の名前を知っていたのだろう。
榊原は俺に近づき、優しく微笑みかけた。
「事前にここにいる人たちにみんなの情報を聞いていたのさ。その中で君が一番僕の興味を引いた。僕のことは光って呼んでよ」
「光……」
「じゃあ早速廃校舎を調査しようか」
俺はなすがまま光に連れられて広間を後にした。
「わ、わたしも行く……」
少し遅れて向日葵日向がついてくる。
「待って、私も行く」
「だめだ。楓は俺と行こう。委員長を殺したやつだぞ。それにそいつに気に入られている内島も怪しい。三日月は俺が守るから安心しろ」
蜘蛛男が三日月の腕を引き、彼女の足を止める。
その二人はその後も口論していたが、やがてその声は聞こえなくなった。
俺と光と日向は軋む廊下を通り、一階の奥にある理科室に入った。
「意外ときれいだね」
蜘蛛の巣と埃まみれのこの部屋はとてもきれいとは言えないが、実験器具がガラスケースの中に収められていたり、床も散乱していなかったり、荒れていないという点においてはきれいと言えるだろう。
光はガラスケースを中心に悔いるように見ている。
「し、辰、さっきは大丈夫だった?」
「ああ、死にかけたけどな」
「わたしも助けようとしたけどまだ自分の特殊能力がわからなくて、太刀打ちできなかった……」
「俺もだ。学校が倒壊したときに一度だけ透明になれたからそれかと思ったけど違うみたいだ」
「な、なにか条件があるのかな。この能力ってステラさんが言うには自分に深く関係していることが多いんでしょ? そこに何かヒントはないのかな?」
「透明と俺……。いや心当たりはないな」
「透明じゃなくて存在が消えるとかじゃないのかな。辰、たまに影薄いし」
「そんないつも存在感ない?」
「い、いやわたしはいつも辰を見てるから存在感あるよ。あ、いや……。でも周りからよく辰いたの?って言われたり休んだ時も誰も気づいてなかったり……」
俺はみんなからいないも同然の存在だったのか……。
「あ、でもたまに存在感あるよ。何もない場所でよくこけたりしてるし」
「フォローになってねえよ」
光は一通り調査し終えて俺たちの元に戻ってきた。
「ここには手がかりらしい手がかりはなかったよ。気になることといえばアルコールが大量にあったことぐらいかな。心なしか部屋もアルコール臭いしね」
「言われてみれば」
「少し窓を開けよう」
窓の外は雨が上がっており相変わらず不気味な月と赤黒い空が世界を支配していた。
「まあ理科室ということを考えればそこまで気になることでもない。次の部屋を見てみよう」
俺たちは理科室の隣にある図工室に移った。
「か、絵画がいっぱいある」
壁一面にダリ、マグリット、エルンスト、マッソン、イヴ・タンギーなどいわゆるシュルレアリスム絵画がぎっしり敷き詰められていた。
部屋の中央には禍々しい波をまとった女性の絵がイーゼルに掛けられている。右手を頭の後ろにあて、左手は腰の後ろに回している。赤い光輪を備えた女性の顔は蠱惑的で恍惚としている。
「ムンクのマドンナ」
「辰くんは美術の造詣が深いんだね」
「昔好きだったから」
「いまはどうなの?」
「わからない」
「面白いね」
光はこの絵に強く興味をひいた様子でポケットから取り出したルーペで念入りに観察しだした。
「日向さんもたしか元美術部だったよね」
「え、あ……」
「べつに怪しんでるわけじゃないよ。三日月さんなんかもゴッホが好きって言っていたし。意外と美術好きが多いんだなと思ってさ」
三日月も美術が好きだったことは初めて知った。
「この絵はファム・ファタールを捉えた絵画とも言われているよね。男を破壊する魔性の女って意味さ。美術好きの君たちには不要の説明だったね。失礼」
光は自身の白髪を撫で、マドンナのような恍惚とした表情を俺に向けてくる。
「辰くんにとってのファム・ファタールは一体誰だろうね」
「どういう……」
「オーイ、エリも混ぜてー」
勢いよく図工室の扉をあけ放ち、いきなり乱入してきたのは佐伯エリだった。
「ねっ、いいでしょ?」
佐伯は俺の腕に抱きつき甘い声で囁いてくる。
「ちょ、ちょっと離れなよ」と、手を前に突き出す日向。
「いーじゃん、べつに彼女がいるわけじゃないんでしょ?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどーゆう問題?」
「それは……」
「ハハハ、まあいいじゃないか。一緒に調査しよう」
「光きゅんやさしい」
今度は光の腕にしがみつく。
日向は眉を鼻の付け根に強く寄せていた。
続いて誰かがこの図工室に入ってきた。ひどく慌てた様子で息も切らしている。
「みんな大変だ」
前島だった。
「三日月がやべえ。とにかく二階に来てくれ」
俺たちは急いで理科室のわきにある階段から二階に上がった。
「なんだこれ」
「やだエリこわーい」
その道中、廊下に十三人の死体が転がっていた。
「俺も知らない、さっきは違う階段から降りてきたから……」
すべての死体の肉は、半熟卵のように溶けていた。
目が痺れるほどの腐敗臭に思わず口元をおさえる。
「まずは一刻も早く三日月さんのもとへ行くのが先決じゃないかな」
こんな状態でも冷静に判断できる光は奇妙に思えた。一体彼は何者なのだろう。
俺たちは一旦十三人の死体を置き去りにして、三日月のもとへ走った。
二階の奥にある教室へ行くと、蜘蛛男に羽交い絞めにされた三日月がいた。残った四本の足で三日月の制服をズタズタに切り刻んでいた。
俺が三日月の名前を叫ぶと、か弱い声で「たすけて」と返ってきた。
「二人の時間を邪魔しやがって」
「どうやら蜘蛛嫌いは克服できたようだね」
ゆっくりと蜘蛛男に近づく光。
「これ以上近づくと楓がどうなっても知らねえぞ」
「なんでそんなことしてるのさ」
「そんなことってなんだよ。当たり前だろ。俺は楓が好きなんだから」
「好きな人を人質にしてどうするのさ。それに三日月さん嫌がってるみたいだよ」
「フンッ。楓は俺のモノなんだから俺がどう使おうが関係ねえ」
「みんなあんまり意識してないみたいだけどXを殺してすべてが元通りになったときどうするのさ。もしかしたら記憶はそのままかもしれないよ」
「黙れ、やっと俺が望む世界になったんだ。もう俺は我慢しないって決めたんだ」
「なるほど、あくまで悪役に徹するのか。処分しやすくて助かるよ」
「何か変なことした時点で楓の命は保証しないぞ」
光の特殊能力の詳細はまだわからないが、彼の能力なら蜘蛛男が攻撃を察知する前にやれそうな気もするが。
「君は本当に三日月さんのこと好きなのかい?」
「ああそうさ。世界一愛している」
そのくせ三日月の命は保証しないという発言は矛盾しているように聞こえる。この無秩序な世界で頭も混乱しているのだろう。
「あ、あの二階にいた他の人たちを殺したのもあなたなの?」
「いやあれは違う人だね」
なぜか光が日向の質問に答える。
「どうでもいいから早くどっかに行きやがれ。こちとらお楽しみ中だ」
光が右手を顔の前に構える。
「うわ、ウクレレ? なんで?」
急に前島が声を張り上げた。突如として彼の前に出現したウクレレを拾い上げ、ほとんど反射的に鳴らした。チューニングされていない開放弦の音が不安定に鳴り響く。
「なんだこれ、急に眠気が……」
弾いた本人が真っ先にウクレレの音の魔法にかかって眠ってしまった。
突然の出来事に誰もが対処することができず、その場にバタバタと倒れていく。
俺も異常なほど重くなった頭を支えられず、その場に伏してしまった。すると、床に扉が現れ、その扉に吸い込まれるようにして下へ下へと沈んでいった。
そこは夜の砂浜だった。白い月と白い星々に囲まれた穏やかで静かな場所だった。
聞こえてくるのは、清らかなさざ波の音のみ。人の気配も感じられなかった。
三日月は大丈夫だろうか。
今のところ誰がXで誰がYなのかも一切わからない。
ステラは廃校舎にヒントがあるといったが、それらしきものは見つかっていない。
水平線の向こうに巨大な胎児が現れる。
背を丸めて気持ちよさそうに眠っていた。
もちろん顔に特徴らしきものはない純粋な赤ん坊だが、なぜか自分と近いものを感じた。赤ん坊の手前から大きな波が引き寄せてきた。おそらく十メートルはあるだろう。俺が住んでいた二階建てのアパートよりも高い。
これが夢なのはわかりきっていたが、世を覆いつくすほどの気概と圧をこの大波から感じた。
俺たちは不条理なこの世界でどう生きていけばいいのだろう。