「優しさ」にふり回される
仕事の要領が悪い人、大勢で道をふさぎながら歩く人、おせっかいが過ぎる人。
そんな些細なことにイライラするたびに思う。
「優しくないなぁ、自分」
出来るかぎり優しい人でいたいのに、なんだかうまくいかない。小さなイライラが積み重なって、どんどん心が尖っていくのが分かる。尖った心は普段よりも敏感で、反応したくないことにも反応してしまう。悪循環。
「できれば、優しい人でいたい。」
そう思う理由を掘り下げてみると、結局は自分のためであることに気づく。
優しい人でいた方が愛される。優しい人でいた方が、なんかうまいこと生きられる気がしている。人の目を気にして、自分をよく見せようとしている。結局は、自分のために人に優しくしているのだ。
それって、本当の優しさっていえるのかな?
ていうか、そもそも優しさってなんなんだ?
そんな「優しさ」に振り回されている、今日この頃だ。
優しさとは?
とりあえず手始めに、”優しさ”について調べてみた。
優しさとは、自分に対する見返りを求めず、損得を考えずに相手のためになる行動を進んで行うこと。
これをみて、真っ先に思い浮かんだのは母のことだった。
こちらの記事にも書いたのだが、わたしの母は「他人のために生きる人」だ。見返りなんて求めず、ただただ「人の幸せが自分の幸せ」と、信じて疑わない人。
だが、そんな母の口癖のなかで、どうしても引っかかっているものがあった。
それは「かわいそう」という言葉。
一人で暮らす近所のおばあちゃん。ムリをしすぎて、心を病んでしまった若い女性。そんな人たちを助けては、「かわいそう」だと言う。
一人きりでかわいそう。
辛い思いをしてかわいそう。
だから、助けてあげなくちゃ。
それが母の「優しさ」だった。
筋は通っているのかもしれない。
でもわたしは、納得できていなかった。
その人の環境や状態をみて、勝手に気持ちを判断して「かわいそう」だと決めつける。それはとても失礼な気がした。
確かにわたしは、その人たちと同じ状況になったことはない。家族に囲まれ、ぬくぬくと幸せに暮らしているし、心を病んだこともない。経験したことがないものは「想像」で補うしかない。それはわかる。でも、本当にその人たちは「かわいそう」なんだろうか?寂しい瞬間はあれど、それなりに楽しく暮らしているかもしれない。それを他人が勝手に「かわいそう」という言葉に押し込めてしまうのは、どうしても違う気がしていた。
「かわいそう」だと思ったから助ける。
それが母の優しさなんだと思う。
純粋に、ただそれを実行している。自分のなかの正義を、優しさを、信じて疑わない。実際、母に助けられた人はたくさんいる。わたし自身は何もしていないのに「お母さんに助けられたのよ。ありがとう。」と近所のおばあちゃんに声をかけられたこともあった。相手がそれを「優しさ」だと受け止めれば、それでいいのかもしれない。
でも、もしかしたら、こちらの「勝手な優しさ」に傷つく人もいるのかもしれないと思うと、優しくすることを尻込みしてしまうことがある。
電車で立っているお年寄りを見かけたとき。
妊婦さんを見かけたとき。
席を譲りたいと思う。助けたいと思う。
でもそれが「ありがた迷惑だったらどうしよう」と考えてしまう。わたしは本当に優しくしたいのだろうか?「優しい人」だと思われたいだけなんじゃないか?そんなことを考えてしまう。
母の教えを真っすぐに信じていたわたしは、小学校の通知表によくこう書かれていた。
「友達のために行動できる、思いやりのある優しい子です。」
あの頃の自分にとって、それはただの誉め言葉だった。誇らしく思っていたし、優しい人であり続けようと思った。でも大人になればなるほど、優しさはわたしを息苦しくさせた。
要領の悪い人にイライラして、自分の想い通りにならない世の中にイライラして。なんなら「みんな消えればいいのに」なんて思うことすらあって。
そこには「優しくない自分」が間違いなく存在していて。
そのことを自分だけが知っている。絶対に表には出さない。いい人だと思われていたいから。嫌われたくないから。だから、周りの人はわたしを「優しい人」だと信じている。
それでいいのかもしれない。周りの人が「優しい人」だと思ってくれれば、わたしは「優しい人」なんだろう。
でも、時々「そうじゃないんだ」って叫びだしたくなる。
「優しいと言われる自分」は偽物で。
「優しくない自分」が本物なんだって。
本当はぜんぶどうでもいい。
他人も。未来も。
ただ自由に。自分のためだけに生きてみたい。
そんな利己的な「優しくない自分」をおさえられない瞬間が、たしかにあるのだ。
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