たぶん死ぬまで悪あがき
四角い地下を走る電車が、わたしたちを運ぶ。
背広を着たサラリーマンは、代わり映えのしない車窓を、ただぼぅっと見つめている。疲れた顔をしたOLさんは、窮屈なパンプスから踵を少しだけ逃そうとしている。
きっと、だれもどこへもいけなくて。
行こうともしてなくて。
これから先も、知った道をただ走るだけなのだと誰もがそう思っていて。
そんななか、夢を語る彼女の瞳だけが、執拗に輝いていて。
「うち、やっぱりマンガ家になりたい」
そう言った彼女の瞳を、わたしはいつまでも忘れられないでいる。
1
最近のわたしはハッキリ言ってダメダメだった。
「書く仕事がしたい」と宣言してから、クラウドソーシングサイトから仕事に応募してみたり、なんだかんだと動いてみたが、まぁうまくいかない。宣言してからそう日もたっていないし、当たり前と言っちゃ当たり前だ。そう簡単にうまくいくわけないと分かっている。だが、豆腐に申し訳ないくらいの豆腐メンタルのわたしにとっては、けっこうしんどい日々だった。
気分転換と称して、SNSのタイムラインを徘徊しては、脳にゴミをためる自分に自己嫌悪。こんなことしても余計疲れるだけだ!なんか少しでも意味のあることをしなければ!なんて思って、自己啓発書を読み漁るけれど、情報が増えるだけで、頭はパンク寸前だった。ちょうどその時読んでいた本に「アウトプットしない情報はただの脂肪だ!!」なんて書いてあったもんだから、ふつうに傷ついた。正論すぎてぐぅの音もでねぇ!!
だれもなにも言っていないのに、勝手に追い詰められていたのだ。
ずっと「なにかしなきゃ」。そう思っていた。
そこらへんにあるものを頭に詰め込んでは、あーだこーだと考える。考えることと言えば、もっぱら「人生」とか「生きる意味」とか、およそ答えの出なそうなことばかり。
「いま、ここ」はいつも二の次だ。
見えないなにかに追い立てられて。
見えない答えを求めている。
ぐるぐる。ぐるぐる。
そんなことばかりを繰り返す自分を俯瞰しながら、ふと思う。
「すべて、悪あがきなのかもしれない」と。
2
片道1時間。往復2時間。
これはわたしが美術系高校に通っていたときの通学時間だ。
わたしの家は、住所を聞いたほとんどの人に「便利なところに住んでるね」と言われるくらいの都会にあった。その反対に、学校があったのは辺鄙な海辺の工場地帯。長期休みを除けばほぼ毎日、電車を3本ほど乗り継いで通っていた。
そんな決して短くはない時間を、よく一緒に過ごした友達がいた。
彼女の名前は、かおり。
かおりとは、学校の最寄駅から、わたしが降りる駅まで、ずっと一緒だった。小中学校とは違い、いろんな地域から生徒が集まる高校ではなかなかレアな存在だった。行きは別だったが、帰りはよく一緒に帰っていた。あーでもないこーでもないと、いろんなことを話した。ほとんどは取るに足らない話だ。誰と誰が付き合っているとか、推しが尊いとか、そんな話。そんななかで時折、真剣な顔をしながら「人生」なんかを語ってみたりもして。この先どうなるのだろう。なんでいまはこうなんだろう。そもそもなぜ人間はこうなんだろう。そんな哲学みたいな話まで、高校生なりにかっこつけて話していた。いまになれば「青かったなぁ」の一言で片づけられてしまうような、そんな時間。でも、あのときはそれが全力で、それが私たちのすべてだった。
*
いつもと変わらない帰り道、かおりは言った。
「うち、やっぱりマンガ家になりたい」
プルルルルー。
「白線の内側までお下がりくださいー」
聞きなれたアナウンス。
ガヤガヤ。コツコツ。
だれかの話し声、足音。
雑多な音が溢れる駅の構内で、それはやけにはっきりと、わたしの耳に届いた。
あの時、わたしはなんと答えたのだろう。
あまりよく覚えていないけれど、きっと「いいやん」とか「応援してる」とか、そんなんだったと思う。なにしろ私たちが通っていたのは美術系の高校だったから、デザイナー志望とかマンガ家志望はゴロゴロいたのだ。いうなれば、日常的によく聞く話ではあった。それを一番仲のいい友達が言ったから、それを応援した。ただそれだけのことだ。
それだけのこと、なのに。
あのときの彼女の声が、瞳が。
いまでも脳裏に焼き付いて離れないのだ。
3
高校を卒業してから、かおりとは疎遠になってしまった。
だからかおりが本当にマンガ家になったかどうかは、わからないままだ。わたしの知らないところで、知らないペンネームで描いているかもしれないし、全く別の職業についているかもしれない。もしかしたらもう結婚とかしているかもしれない。とにかく、なんにも知らない。大人になったかおりのことは、なんにも。
そう、わたしは大人になった。
正確に言えば「大人と呼ばれる年齢」になった。
わたしたちが夢やら人生やらを偉そうに語っていたときに周りいた、あの「大人」になった。若い私たちは、自分たちしか見えていなくて、自分たちが世界のすべてで。そこにいた大人たちのことをあまりよく覚えていない。きっとそこにいたであろう背広を着たサラリーマンは、疲れ果てたОLさんは、わたしたちを見てなにを思っていただろう。いまなら、少しだけ分かる気がする。「若いっていいなぁ」「青いなぁ」とか、たぶんそういうのだ。いまの自分が高校生を見れば、たぶんそういうだろう。その気持ちがわかる年齢になった。
なのに・・だ。
いまだに、ふとした瞬間思い出す。
見慣れた通勤路を歩いているとき。
冒険する気力もなく、毎日変わり映えのしない料理を食べているとき。
まるでそこにいつもいたような顔をして、あの時の記憶が、ひょっこりと顔を出す。
「うち、やっぱりマンガ家になりたい」
何者かになりたい。いや、きっとなれる。
もっといい大人に。
もっと「自分が好きな自分になれる」。
そう信じて疑わないあの瞳が。
狭い地下鉄のなか。
変わらない道を、変わらない顔ぶれを運ぶ電車の中で、彼女だけが、未来を見ていた。
どうして忘れられないんだろう。
どうして思い出してしまうんだろう。
あの瞳が、あまりにも強かったから?
あの光景が、かおりとの思い出だから?
・・そうじゃない。
たぶん、わたしはいまでも、あの瞳を信じたいのだ。あのときの気持ちを。
いつかきっと「自分の好きな自分になれる」と、いまでもどうしようもなく、信じている。
若いから、青いから。そうじゃなくて。
いまの自分でも。今からでも。
どうか自分を好きにならせてくれよ、ってあがいている。そのための方法を探している。
自己啓発書を読み漁るのだって、いまこうやって書いているのだってそうだ。
「書く仕事がしたい」なんて思ったのもぜんぶ、「自分が好きな自分になりたい」からだ。
そのための悪あがきだ。
「自分の好きな自分ってなんだよ?」って聞かれると正直わからない。でも「今のままでいい」なんて到底思えなくて。だからいつも探している。
自分になにができるのか?
なにがしたいのか?
納得できる日なんてこないのかもしれない。
いつまで青いままなんだって自分でも思う。
いい加減諦めてくれよって。
でも、どうしようもなく、信じたくなるのだ。
「何者かになれる」と信じて疑わなかったあの日々を。あの声を、瞳を。そして、自分を。
わたしは諦めが悪いから。
この悪あがきは、たぶんずっと続く。
下手したら、わたしが死ぬまで、ずっと。
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