みんな、ほんとにがんばってないの?
「がんばらなくていい。マイペースに生きよう。」
みんな言ってるけど、ほんとにがんばってないのかな?と思ってしまう。
あの人もこの人も、「がんばらない宣言」。
「どれどれ、どんなもんかな・・」とフタを開けてみれば、仕事や自分のやりたいこと、どれも一生懸命がんばっていて、勝手に裏切られた気分になっている。
わたしから見ると「がんばっている」けど、あの人にとっては「がんばっていない」らしい・・。それってすごいなぁ・・。
みんな大人として、人間として、世界の役に立って、ちゃんと生きているように思える。
要するに「がんばる」を比べているのだ。
わたしが本気でがんばらなかったらどうなるか。
昼過ぎに起きて、一日中アニメを見て、眠くなったらまた寝て、「10分で痩せるダンスエクササイズ!」っていう動画を見ながら、ポテチを食べたりしていると思う。っていうか実際そうだ。
そしてこれは誇れることでもなんでもない。
いつもなんとな~く「がんばらない日」を過ごして、一日の終わり、youtubeをみながら「あ~今日もなんもしなかったなぁ・・」と申し訳ない気持ちになるのだ。
このよくわからない罪悪感はなんなのか。
これはたとえ「今日はがんばらない日を過ごすんだ!」と決意したとしても、消えないと思う。
どうしたらいいんだろう?
人と比べなければいいのか?
でも、それはたぶん無理な話で。
この世に「他人」がいる限り、比べることはやめられないと思う。
「人と比べず、マイペースに」とか「自分軸で生きる」とか。
そもそもそういう言葉たちも、「他人がいなければ成立しない」と思うからだ。「マイ」ペースって言ってる時点で、そこには「他人」が存在している。変な話だ。
生きている限り、「他人」は絶対に存在するし、比べることもやめられない。
さぁ、どうしたもんか。
「つべこべ言わずにがんばれよ!」と言われるかもしれない。それは本当にその通りで、ぐぅの音もでないのだが・・。
じゃあ、どこまでやれば「がんばった」ことになるのだろう?
病気になってぶっ倒れるまでやれば、「がんばった」と言えるのだろうか?
仮にそこまでやったとして、なんの成果も出せなかったら、これほど恐ろしいことはない。だから「がんばるよりちょっと手前」くらいのところで寸止めしていたいのだ。
「がんばる」でも「がんばらない」でもない。
その間にせっせと自分のスペースをつくっている。
そこはまるで、昼下がりの公園のベンチみたいに居心地がよくて、ついつい長居してしまう。
そしてそのうちそこを、「マイペース」とか「自分のやり方」って言葉に変えて、居座り続けるのだ。
いったい何が言いたいのか、自分でもよくわからないけど。
とにかく「こんなこと考えてるやつがいるんだ」って、誰かに知ってほしかったのだ。たぶん。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?