日本ゴルフ界のレジェンド 『AON』
こんにちは!ごるふぁんです。
初めてのnote投稿となります。
よろしくお願いします。
松山英樹選手のマスターズ優勝で歓喜に沸く日本ゴルフ界ですが、
これまで数々の名選手がその土台を作ってきました。
その中でも圧倒的な成績を残し、またその活躍時期が
重なっていたことから、『AON』と並び称されたプレイヤーが
いました。
それが、
A=青木 功 選手 (愛称:コンコルド青木 ← 定着しませんでした)
O=尾崎 将司 選手 (愛称:ジャンボ尾崎 ← 本名より有名?)
N=中嶋 常幸 選手 (愛称:トミー中嶋 ← 海外参戦時の登録名)
の3選手です。
日本ツアー勝利数は、3人合わせて193勝。
ツアー10勝していたら、間違いなく名選手中の名選手です。
(過去に10勝以上している選手は33人)
それを3人で193勝なので、これは脅威の数字です。
彼らの活躍は日本国内に留まらず、
海外メジャーでも優勝まであと少しという活躍を見せてくれました。
【海外メジャー最高成績】
青木選手 → 全米オープン2位
尾崎選手 → 全米オープン6位
中嶋選手 → 全米プロ3位
~『AON』の今~
青木選手は2016年から2021年現在まで、日本ゴルフツアー機構(JGTO)の会長を務められています。
尾崎選手は生涯現役を掲げ、今でもレギュラーツアーに出場されています。
※ツアー25勝で得られる永久シードを使用しての出場
中嶋選手は、ジュニアゴルファー育成のため、
『ヒルズゴルフ トミーアカデミー』を設立するなど、
後進の育成に尽力されています。
また、松山選手がマスターズ優勝を達成した際には、現地でゲスト解説を
されていました。
感動に涙し、声を震わせながらの実況は、記憶に新しいのではないでしょうか。
さて、今回はこれまでの日本ゴルフ界にもすごいプレイヤーがいたんだ!
ということをご紹介する内容になりました。
そのレジェンド達でさえ成しえなかったことを松山選手が達成した!
と考えれば、より一層感慨深いものがあるのではないかと思い、このテーマで書かせていただきました。
この先、『AON』のことをもう少しだけ書きます。
良ければ読んでください!
【テーマ】
◇青木 功 ~ 海外挑戦のパイオニア
◇尾崎 将司 ~ 生涯現役へのこだわり
◇中嶋 常幸 ~ メジャーでの苦い経験
【青木 功 ~ 海外挑戦のパイオニア】
今でこそPGAツアーに日本人が参戦することも増えてきましたが、
40年前は、日本人が海外のツアーに参戦するなんてことは、
考えてもみない時代でした。
その認識を変えたのが、青木選手でした。
青木選手は、1976年に自身初となる日本ツアー賞金王になって以降、
積極的に海外ツアーに参戦するようになりました。
そして1978年、世界マッチプレー選手権で、海外ツアー初優勝を飾ります。
1981年には米ツアーのライセンスを取得し、翌年、日本人として初めて
シード権を獲得しました。
そしてシード選手として戦った1983年、ハワイアン・オープンで
日本人初の米ツアー優勝という偉業を達成しました。
しかもこの試合、
青木選手は最終ホール(Par5)を1打差で迎えるのですが、
2打目をラフに入れてしまいます。
しかし、何と3打目を直接カップインさせてイーグル!
劇的な逆転優勝となりました。
(今でもPGAツアー名場面集などを見ているとノミネートされています)
日本人でも海外で勝てるんだ!ということを証明したことで、
日本人選手の米ツアー挑戦への道を切り開いてくれたと思います。
【尾崎 将司 ~ 生涯現役へのこだわり】
尾崎選手は1994年から1998年までの5年間、
日本ツアーで28勝をあげ、5年連続の賞金王に輝きました。
この時点で51歳。
ゴルフは選手生命が長いスポーツと言われますが、それでも
40代後半になると勝てる選手はほとんどいなくなります。
そんな常識を覆すような、とんでもない成績です。
「ジャンボは衰え知らずか」、と誰もが思っていたことでしょう。
しかし、尾崎選手の成績にも次第に陰りが見え始めます。
1999年は2勝をあげるも賞金ランキングは6位、
6年連続の賞金王を逃します。
続く2000年は1勝に留まり、2001年はついに1年間優勝なし。
1年通して優勝なしというのは、1985年以来16シーズンぶりという
異常事態でした。(普通に考えると15シーズン連続で年間1勝以上していることのほうが異常事態ですが)
しかし、2002年は全日空オープンで復活優勝を飾ります。
55歳での優勝は、今も破られていないツアー最年長優勝記録です。
しかし、これが現時点では最後の優勝となっています。
トップ10には度々食い込むものの、優勝を飾ることはできていません。
その後も前述の永久シードの資格でツアー出場を続けますが、
2007年ごろからは、持病の坐骨神経痛の悪化などもあり、予選通過すらままならない状況になりました。
それでも尾崎選手はツアー出場を続けました。
全盛期を知るファンの中には、そのギャップに見ていてつらいという方もおられたのではないかと思います。しかし、他でもないジャンボ本人の意志です。それも、日本ゴルフ界の歴史を作ってきたレジェンドの意志です。その戦い続ける姿を見届けるということも、ファンの役目ではないかと思うのです。
そのような状況の中でも挑戦し続ける中で、明るいニュースも提供してくれました。
2013年の東建ホームメイトカップ初日、当時66歳にして、
1イーグル、9バーディー、2ボギー=トータル62というビッグスコアを出し、大会を沸かせてくれました(最終成績は51位T)。
このスコアは、レギュラーツアーでは史上初となる
エージシュート(ゴルフの1ラウンドを、自身の年齢以下の打数でホールアウトすること)でした。またも常識を覆す記録を作ったのです。
彼の挑戦し続ける姿勢は、見ている人に勇気を与えてくれるものだと思います。それは、ファンに対してもそうだと思いますし、これから40代、50代に入っていこうとしているベテランのプロゴルファーに対しても。
コロナ渦に見舞われてからはツアーに出場していませんが、
またその雄姿を見せてくれることでしょう。
【中嶋 常幸 ~ メジャーでの苦い経験】
中嶋選手、実は松山選手も達成するまで、史上唯一の海外メジャー全てで
トップ10に入った日本人プレイヤーだった。そして幾度となくメジャー
優勝に近づきながらも叶わなかった。その裏には、数々の苦難があった。
・1978年 マスターズ2日目
善戦していたが、13番ホール(Par5)でクリークに2度つかまり、11オン
2パットの13を叩く。
・1978年 全英オープン3日目
17番ホール(Par4)、入れればトップに並ぶバーディパットがカップを
オーバーしてそのままバンカーに転がりこむ。脱出に4打を要し、9を叩く。
・1986年 全英オープン
3日目終了時点でトップと1打差の2位につけるが、最終日は77と崩れる(8位T)
・1987年 全米オープン最終日
15番ホールで単独トップに立つも、18番ホールの第2打が松の木に当たり、そのまま落ちてこなかった(ロストボール)。これによりこのホールをダブルボギーとし、優勝争いから後退。
優勝争いに度々絡みながら、その度に悲劇に見舞われた中嶋選手は、メジャーで勝つことの厳しさを、誰よりも知っている日本人かもしれません。
そんな彼だからこそ、松山選手の悲願達成に涙せずにはいられなかったの
でしょう。「あっさり逃げ切っていたら、泣かなかったと思う」と後日の
インタビューでも話されていました。きっと、彼も松山選手と一緒に
オーガスタで戦っていたのだと思います。
以上で『AON』についての記事を終わらせていただきます。
読んでくださった皆さま、ありがとうございました。
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