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#6 【ゴルフの歴史】日本人が目土を始めたのは、フェアウェイが高麗芝だったから。


はじめに

 高畑誠一(1887-1978)は、ヘッドカバーや手袋(厚手の手袋を薄く改良)を考案した人物として知られている¹。しかし、「目土」や「目土袋」も高畑のアイデアで生まれていることはあまり知られていない。本稿は、高畑が目土を始めた廣野ゴルフ倶楽部(以下、廣野GC)で、なぜ目土をする必要があったのか、またそれは現在のゴルファーにとってどのように意義のある行為だったのかを考えてみたい。

 まず、高畑の著書『ゴルフ ルール百科全書』(1961年)から「目土袋携帯の起源」²を紹介する。次に高畑と廣野GCの関係、実際に誰が目土をしていたのかを順に述べる。その上で、ゴルフの本場英国の目土の歴史について触れ、最後に考察とする。

目土袋携帯の起源
 日本の高麗芝は雨上りは別だが、普通プレーするとディボットは取れないで、草がばらばらになり、レプレースするものが残らないから、1935年の秋と思うが筆者は広野で目土袋を作らせ、これをキャディに携帯させてプレー後補充させた。今は各クラブがこれを実行しているのが喜ばしい。

高畑誠一『ゴルフ ルール百科全書』(1961年)

廣野GCと高畑誠一

 高畑は1935年の秋、「広野」で目土袋を作らせた。「広野」とは、1933年(昭和7)に現在の兵庫県三木市に開場した廣野GC(注1)のことである。高畑は同GCの18人いる発起人のうちの1人であるが、その関りはコース候補地を探すところから始まり、東京GC朝霞コースの設計のために来日していたC.H.アリソン(1883-1952)を滞在先の帝国ホテルまで訪ねて設計依頼をするなど、特に重要な役割を担っていた。そのことは、開場当時キャプテンを務め、始球式を行った朝香宮殿下からゴルフボールを受け取ったのが高畑だったことからもよくわかる。

 ところで、結果的に廣野はアリソンに設計を依頼しているが、同GC50年史によれば当初はティーとグリーンの位置だけを決めてもらう予定であった。この場合の設計依頼料は500ポンド(約6000円)で、現在の金額に換算すると約130万円。しかし、アリソンが実際にコース予定地にやってきて見分を始めると、発起人たちも乗り気になり、立派なコースを造りたい一心でさらに1000ポンド(約12000円)追加して改めて詳細な設計を依頼することになる。

 コース造成が始まると同じく発起人の1人である伊藤長蔵が現場監督となり、英国のゴルフコースに詳しい高畑と激論を戦わせながらコースを造り上げていった。その際、高畑はグリーンにベント芝を採用することを強く主張する。こうして関西で初めてベントグラス(寒地型芝草)のグリーンを持つゴルフコースが誕生した。しかしフェアウェイのコウライシバ(日本産芝草)は、所謂「ターフ」がきれいに取れず、高畑のいう「リプレースするものが残らない」ので、ディボット跡に目土をすることを思い付いたと考えられる。

目土をしていたのはキャディ

 高畑は目土袋を考案し目土を推奨したが、実際に目土をしていたのはキャディである。廣野は開場当時180人(小学校の在校生120人、卒業生60人)がキャディとして登録をしており、その年齢は13歳から18歳までの男子のみ。在校生は主に土日の休みの日に、平日は卒業生40人ほどがキャディ業務に携わっていた。(女子キャディの採用は昭和14年ころから)高畑が目土袋をキャディに持たせたのは1935年(昭和10)なので、このとき目土をしながら同行していたのは男子のキャディであることは間違いない。

 また廣野の会員数は、開場1年目(昭和7年)165人、2年目(昭和8年)306人、3年目(昭和9年)374人、4年目(昭和10年)404人、5年目(昭和11年)448人、6年目(昭和12年)471人と、年々増加傾向にありながらも「グリーン、フェアウェイの状態も、ほとんど完全に近い絶好のコンデション」³を保っていた。これはひとえにコース管理に徹していた結果であると考えられるが、高畑の指示した目土の補充は大いに貢献したはずである。

発起人18氏の名前が掘られたレリーフ
広野ゴルフ倶楽部50年史編集委員会『広野ゴルフ倶楽部 五十年のあゆみ』1982年,p.149。


キーパー・オブ・ザ・グリーン(グリーンの番人)

 R&A(The Royal and Ancient Golf Club)では1822年からキーパー・オブ・ザ・グリーンという地位をシニア・キャディに与え、カップ切りやウサギの糞の始末などを任せるようになる。但し、この時代の人々はコース管理について特別な知識は持ち合わせてはおらず、1863年にトム・モリスがキーパー・オブ・ザ・グリーンの地位に就くまではコース管理と呼べるような作業(メンテナンス)は行われていなかった。当時は、「現在と異なり、『グリーン』という用語は、パッティング・エリアだけでなく、ゴルフ・コース全体を意味していた」。⁴ トム・モリスは、そのグリーンの番人としてコースの状態を良好に保つためにリンクスに砂を撒き始まる。R&Aワールドゴルフミュージアムは、「オールド・トムのアシスタントとして30年間セントアンドリュースで活躍したデイヴィッド・ハニーマン(写真参照)は、オールドコースの独特な個性とチャレンジングなコース作りに貢献し、トムからリンクスに『mair saund’(more sand)』…もっと砂を、と助言を受けていたことで有名である。」⁵と述べている。つまり、1860年代ころから、おそらく現在の目土・目砂入れ作業と同様のコース管理作業が行われていたと考えられる。

写真 R&A World Golf Museum


コース保護のための「目土」

 ここでは、コースメンテナンスから見た目土の必要性や効果ではなく、プレーヤー(ゴルファー)から見た「目土」(コース保護)について述べる。

 ゴルフ規則では、「規則1.2a すべてのプレーヤーに期待される行動」の中で、「コースをしっかりと保護すること―例えば、ディボットを元に戻す、バンカーを均す、ボールマークを修理する、不必要にコースを傷つけない。」と述べられており、このような行動をとることにより、「ゲームの精神の下でプレーする」⁶ことが求められている。

 高畑はディボットを元に戻す代わりに目土をすることでコースの保護に務めた。これは「すべてのプレーヤーに期待される行動」であり、日本特有の高麗芝のフェアウェイ(あるいはラフ)において、高畑が考案した「目土」は日本人ゴルファーにとって意義のある行為であったと考える。

 目土の効果については、以下、『芝草管理用語辞典』における「目土」、「目土入れ」の解説を付け加える。

目土[めつち](topdressing)芝生表面に施すために調整した混合土のこと。グリーン表面を均平にし、芝草のほふく枝やサッチ層に目土を擦り込んでサッチの分解を促進する。また、芝切、ほふく枝またはスプリグ(芝草の小茎)から芝地を造成する場合の覆土用としてこの土を用いる。この目土入れ作業のことをトップドレッシングという。目土の均平、擦り込み作業のレーキ、金網マット、ブラシ、箒などが用いられる。

眞木芳助『芝草管理用語辞典 大改訂版』一季出版,2008年,p.327。

目土入れ[めつちいれ](topdressing)予め用意した混合根層を芝生の表面上に施用し、刷毛、マット、レーキで擦り込み散水する。1)低刈しているパッティンググリーンの表面を滑らかにする、2)芝生面を引き締める、3)有機物の分解を促進する、4)栄養系で増殖の場合は、ほふく枝やスプリグ(芝小茎)をカバーする、などの効果がある。

眞木芳助『芝草管理用語辞典 大改訂版』一季出版,2008年,p.327。


考察

 ここまで高畑誠一が目土を始めるにあたり、目土袋をキャディにもたせて廣野GCで実施したことを中心に述べてきた。高畑は28歳のときに鈴木商店ロンドン支店長としてロンドンに赴任し、英国でゴルフを始める。15年の滞在中に英国内のゴルフコースで腕を磨きつつ、ゴルフコースについての見識も深めたことだろう。帰国後に英国の一流の設計家を招いて設計依頼をした廣野GCについては、並々ならぬ愛着があったことは想像がつく。そんなコースがディボット跡だけらになっては、どうにかしたいと思うのも当然の成り行きだったことだろう。高畑考案の目土は、純粋なコース愛の観点からも、ゴルフ規則の観点からも、あるいは後続の組に対してのゴルフ・マナーという意味合いにおいても、これ以上ない解決策だったのではないだろうか。

 高畑が1935年(昭和10)に目土袋を考案してから、2024年の今年で89年を迎える。当時、日本国内にはまだ44コース(内JGA加盟コースは26)⁸しかない時代だった。キャディは男子ばかりで、プレーヤー1人にキャディが1人付いた。現在のように1人のキャディが4人のプレーヤーの世話をする状況では到底4人分の目土は追いつかない。まして、セルフプレーではプレーヤーが自分で目土をするよりほかにコース保護の目的は達せられない。

 高畑は「目土袋」というアイテムを我々に残してくれたが、筆者も含めてゴルフファーが常にコースで目土袋を携帯しているかといえば、必ずしもそうではないことのほうが多い。プレーに夢中になり過ぎるあまりに、「ゲームの精神」を忘れてはいないだろうか。ミスショットをして、「こんなはずじゃなかった」と自分の練習不足を棚にあげて悪態を付く前に、日本で始まったゴルフ文化・目土袋の携帯を試みることを提案したい。もしかしたら、目土をすることで少しは冷静になって、次のプレーに取り組むことができるかもしれない。

筆者撮影・千刈カンツリー倶楽部(兵庫県) 目土を入れる会
自分の名前入りの目土袋がマスター室前に並ぶ


(注1)
 廣野GCの名称に関して、「広野」と「廣野」が混在しているが、引用する際には書籍の表記をそのまま使用しているので、「広野」となる場合がある。また、同倶楽部50年史『広野ゴルフ倶楽部 五十年の歩み』(昭和57年)では、昭和7年及び昭和57の同倶楽部定款において、どちらも「株式会社廣野ゴルフ倶楽部」と表記されているが、いずれも第1条で「本倶楽部は広野ゴルフ倶楽部と称する」とあり、50年史の段階では同GC内においても「廣野」と「広野」が定まっていないことをここに記しておく。

高畑誠一・英国滞在前後の略歴
1909年(明治42)高畑誠一、鈴木商店に入社(25歳)
1912年(明治45)鈴木商店ロンドン支店長としてロンドンに赴任
1921年(大正10)ロンドンにて昭和天皇がエキシビジョンマッチ観戦
1926年(大正15)英国に15年滞在した後、2月に帰国
1926年(大正15)関西ゴルフ・ユニオン設立
1927年(昭和02)鈴木商店破綻
1928年(昭和03)高畑誠一、永井幸太郎ら日商(後の日商岩井、双日)設立

参考文献・参考URL

1)井上勝純『日本ゴルフ全集7人物評伝編』三集出版,1991年,pp.205-211。
2)高畑誠一『ゴルフ ルール百科全書』株式会社オールスポーツ社 サンデーゴルフ,1961年,p.432。
3)広野ゴルフ倶楽部50年史編集委員会『広野ゴルフ倶楽部 五十年のあゆみ』1982年,p.150。
4)リチャード・マッケンジー、訳者・奥田祐士『19番ホールで軽くやればいつも心はあたたまる』(株)ソニー・マガジンズ,2001 年,pp22-24。
5)World Golf Museumhttps://twitter.com/WorldGolfMuseum/status/1701601102507217376?s=20

6)(公財)日本ゴルフ協会『2023ゴルフ規則のオフィシャルガイド』(2023年3月10日更新)
http://www.jga.or.jp/jga/html/rules/image/OfficialGuide_forWeb_20230309.pdf

7)眞木芳助『芝草管理用語辞典 大改訂版』一季出版,2008年,p.327。
同前,p.120。
8)日本ゴルフ協会『日本ゴルフ協会70年史』1994年,p.220。(台湾は除く)

・双日歴史館「日本ゴルフ界の祖、高畑誠一」https://www.sojitz.com/history/jp/company/post-66.php

・『「私の履歴書」高畑誠一(たつみ第64号)』
http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/person/docs/pdf24_merged%20-%202021-11-14T154720.961.pdf%28P24-28%29.pdf













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