心の固きについて
【管見】『心の固き』について考えた。 2月度の〝座談会拝読御書『乙御前御返事』〟を勉強した。 ――――― (前半部分) されば、妙楽大師のたまわく「必ず心の固きに仮って、神の守り則ち強し」等云々。人の心かたければ、神のまぼり必ずつよしとこそ候え。 〈通解〉(法華経を信ずる者は諸天善神に守られる)それゆえ、妙楽大師は「心が堅固であれば、必ず神の守りも強いのである」と言われている。その人の信心が固ければ、諸天善神の守りは必ず強い、ということです。 〈池田先生の指導〉 たとえ、いかなる状況になっても、心が退いてしまったならば、「心の固き」とはいえません。どんなに戦ってきても退転してしまったならば、一切の功労にゼロを掛けるようなものです。(中略) “さあ、これからだ!”“いよいよだ!”――これが草創以来の学会精神です。「前進、前進、また前進」が、広宣流布の合言葉です。どんな逆境にも立ち向かっていく。どんなことがあっても退かない。それが「心の固き」です。 (『勝利の経典「御書」に学ぶ』第3巻) ――――― 草創期以来以来何度も学んできた御書である。池田先生のご指導に勇気が湧いてくる。 さて、ここからが私の【管見】である。 草創期、幼児期から気が弱くて、それを解決しようと思って、中学2年の時に信心を始めた私は、座談会でこの御書を学んだ後、男子部の先輩に質問した。 「私は気が弱いのを解決しようと思って信心を始めたので、心は全然固くありません。それでは諸天善神は護ってくれないのでしょうか?」 男子部の隊長の答えはこうだった。「大丈夫、田中君の心は必ず固くなるよ」 それ以来、私の頭には「『心の固き』が先か、『神の守り』が先か」という問題が、ずっと巡るようになった。 理屈っぽい私は、こう考えたのだ。 「〝心の固い人〟は〝神に守られ〟るのならば、私のような〝心が固くない者〟は守られない。功徳が無いのなら、何故信心するのだ」「他の宗教では『功徳が無いのは、あなたの信心が弱いからだ』というそうだ。それと同じ理屈ではないのか?」 今にして思えば、草創期に流行っていた〝おすがり信心〟〝乞食信心〟というやつで、戸田先生は何度も警告されていた。 それから、10年余りが経ち、頼りないながらも組織活動を続けた。高等部一期生になり、やがて音楽隊・学生部の訓練を経て、男子部本部長、壮年部支部長となった。こうなったら「気が弱くて、心が固くない」などと言っていらない。境涯革命が出来た。 やがて使命があって公明党の市会議員になった。街頭で大勢の皆さんの前で、原稿無しの演説をすることになった。また寒風の中、聴衆が野良犬だけという場所で、マイクで政策や実績を語ることになった。間違いなく『心の固き』は実現し、『神の守り』は数限りなくあった。 結論を言えば『心の固き』というのは、世間で言う〝意思が強い〟という意味ではない。「世間で言う〝意思が強い〟人」は、一つ間違うと〝我見〟が強く、求道心を失い、先輩の言うことに反発し、幹部を批判して、退転する可能性がある。〝魔〟に負けて、《菩薩界》から《修羅界》に転がり落ちたのだ。実際にそういう〝退転者〟を何人か見て来た。 私は創価学会に入り、池田先生という偉大な師匠に出会い、様々な訓練をして頂いたおかげで、想像もできないほど『心の固き』境涯革命をさせて頂いた。