働く女性の介護体験記(4) 「尊厳ある生き方」という幻想
私の母を介護した体験談の4回目です。
前回の記事で、母が手術後に一般病棟へ移り、そのストレスフルな環境に耐えかねて退院することになった経緯を書きました。
今回は、母が家に帰ってからの話になります。
この回で伝えたいことは、家に帰ったからと言って、必ずしも「尊厳のある生き方」ができるとは限らないということです。
私は、病院という医療中心の場では「尊厳ある生き方」をすることは難しいと思いました。そこで、退院して家に帰ることで、その生き方ができるんじゃないかと考えました。しかし、それは妄想に近いものだということがわかったんですね。
私に限らず多くの人は、「尊厳ある生き方」と言う表現をよく使うと思います。その時は、それがあたかも全ての人に自動的に与えられる権利のように思いがちです。
ところが実際に経験してみてわかったのは、尊厳ある生き方は努力をしないと得られないものだったということです。
この時の経験をお話ししようと思います。
1:母の迷走
退院してからの母の身体状況は変化の大きなものでした。
当初は、母やホッとしたのか食事も進んで、一旦落ち着いたかに見えました。
ただ、肺や心臓に対する手術の負担はかなり大きかったのです。母は、もともと肺の機能が低かったので、術後に酸素が必要な状態になりました。
母は酸素をしていても「苦しい、苦しい」と訴えました。時には耐えきれず、夜中に「先生を呼んで」と騒ぐこともしばしばでした。
他にも、誤嚥性肺炎をよく起こしました。
これは、食べたものが食道ではなく、気道から肺の方へ入ってしまうことです。高齢者によくあるのです。母は、この誤嚥を頻繁に起こしてに何度も肺炎になりました。
心臓の方も、胸が痛い痛いと言って、狭心症のような症状を訴えることもありました。
このような本当にさまざまな母親の訴えに、主治医の先生はそのつど、24時間いつ電話をかけても、相談にのってくださり、指示をだしてくれました。
母の身体の状態はとても複雑で、簡単に治療できるものではなかったのです。どんな薬をだしても、すぐに改善するというようなことはなく、治療の決め手がないという感じでした。
それでも、先生は「トライアンドエラーでやってみましょう」と言って、正解がわからない中、手探りで母のことをみてくださっていました。
いつもがんの患者さんをみている先生からすれば、いつまで生きるかわからない80歳過ぎの母は、治療のしがいがないのではと思いました。
そんなそぶりは見せず、いつも誠実に母と向き合ってくださる先生にはいつも感謝していました。
実は、この体のこと以上に大変だったのが、母の精神状態の方でした。
母は落ち着いている時は穏やかにすごしています。ただ、不安になると、がまんができなくなり、数分おきに私を呼ぶようになるのです。
昼間はあまり気にならないのですが、夜中は大変です。私は寝る時間が全くなくななり、身体的にも精神的にも疲労困憊の状態におちいりました。
主治医の先生に相談して、母の精神を安定する薬を処方してもらいました。
しかし、一向によくなる気配はみられません。私の母を介護する気力は、だんだん限界にちかづきつつありました。
2:私の迷走
家に帰れば、なんとかなると思ったのは間違いだと気づきました。
家に帰ってからの方が、大学病院に入院している母に付き添っているよりもずっと大変だったのです。
一人で母を介護することには限界であり、他府県にいる姉に助けをもとめて、しばらくきてもらいました。ただ、自分にも世話をする家族のいる姉に母の介護のためにずっと一緒にいてもらうことはできません。
母の状態は一進一退で、これからどこへ進むのかはわかりません。ひとりでどこまで世話できるのか、不安になり、私も迷走状態です。
大学病院から退院する前に、私の頭にぼんやりと描いていた「尊厳ある生き方」なんて、妄想でしかなかったのです。
それは母も同様の気持ちだったと思います。せっかく家に帰ってみたものの、自分の状態はよくならず苦しいだけで、きっと絶望していたんだと思います。いつも、「死にたい」、「死にたい」とベッド上で繰り返していました。
きっと母は、神様が迎えにきてくれないことを、嘆いていたのであろうと思います。正直私も、同様でした。
3:トンネルからの脱出
そんなか、介護を始めて3カ月過ぎた頃、いよいよ疲弊した私に、ある日ケアマネさんが、「お母さんを精神科の病院に受診させてはどうですか」と提案してくれました。
ケアマネさんは、私の母のことを「認知症」にちがいないと思っていました。そのため、認知症専門病院を受診し母を入院させてくれるように頼んでみてはと言うのです。
私は、その時、精神病院に入院すると言うことが母にとってどんな意味をもつのか考えるゆとりなど全くありませんでした。とにかく、今の状態が改善するならば、なんでもやってみようと思いました。
そこで、すぐにケアマネさんの進める認知症の病院へ母と一緒に受診さすることにしました。
受診の当日、私は、どうせ3分程度の診療かと思っていました。ところが、その病院の先生が30分も私と母の話を聞いてくれたのです。
そして検査の結果、私の母は認知症ではなかったのです。理由は、長谷川式スケール(認知症の検査)の検査が高得点であり、頭部のCTが正常であったからです。
先生は丁寧な声で、母を入院させることはすすめないと言われました。外来で治療した方がいいと。なぜかと言と、その病院はほとんどが重症の患者なので、認知症でもない母が入院すれば、環境に適応できずに、母の状態はもっと悪くなるからです。
確かにその通りだと思いました。
第一、なんのために大学病院を退院させたのでしょう。母に「尊厳ある生き方」をしてもらうためではなかったのでしょうか。
先生は、そんな私の気持ちをさっしてなのか、もしどうしても私が在宅で母を介護することが難しいなら、特養のショートスティを長期に利用するという方法があるので、それを利用してはどうかと教えてくれました。
病院の医師と言えば治療のことだけしか頭にないと思っていたので、この先生が、私たちの生活のことにも理解してくれたこと驚いたとともに、とても救われた気持ちになりました。
そして、今までどの治療薬も母の精神状態を抑えることができなかったので、薬による治療には全く期待していなかったのですが、この時、私はこの先生を信じてみようと思いました。
私は、この時トンネルの先の光が見えた気ようながしたんです。
4:気力をふりしぼった母
精神科の先生に新たに処方してもらった薬をのんだとて、母がすぐによくなることはありませんでした。
ただ、私も我慢強く母の状態の記録をつけ、2週間後にそれをもって精神科を再受診し、そして先生はその記録と母の状態をみて、薬の量を少しずつ増量していきました。
だから、3週間目ぐらいからです。母に少しずつ変化がみえてきました。
精神状態が落ち着いてきたように思いました。夜間に私を起こすことは相変らずでしたが、母の顔つきが少し明るくなってきたような気がしました。
それから、母の認知機能の方も回復しつつあることに気がついたのです。
なぜかと言うと、ディサービスにいっても、寝ていることが多かったのに、その治療が始まってから、割と難しいゲームにも母は参加するようになっていました。
そして、そのような中、ある時、驚いたことが起こります。
なんと、母は自分でトイレに行くことを練習しはじめます。
母はそれまで、歩くことができなかったので、おむつを使っていたのです。
ですから、私たちは、だれも母が歩いてトイレに行けるようになることを期待していなかったです。まして母がトイレにいけるようになるとは思っていなかったのです。
せいぜい回復しても、ベッドから少し移動して、ポータブルトイレができるようになるくらいだと思っていたのです。
しかし、母は倒れる前は、人に世話にはなりたくない。自分でトイレに行けなくなったら死んだ方がましだと言っていました。
だから、母にとって自力でトイレに行くことは、母にとっての「尊厳ある生き方」の最低条件だったのではないでしょうか。
本当に驚いたことに、多分1週間くらいしかかからなかったのではないでしょうか。床をはっていた母が、いつのまにか膝で立って進むようになり、そして伝い歩きをし、最後は誰にも支えられず、一人で歩いてトイレに行くことができるようになっていきました。
退院して3カ月が経っていました。でも母にとって、この道のりは何年にも感じられるくらい長い道のりであったのではないかと思います。
きっと、これは母にとってもトンネルの先の光が見えた瞬間だったのではと思います。
5:尊厳ある生き方は努力の賜物
この経験を通して、尊厳ある生き方というものは、簡単に手にはいるものではないことを見にしみてわかりました。
そこには、多くの人たちの力が必要でした。
姉を始めとした家族・親戚、ケアマネさん、主治医と看護師さん、そして精神科の先生、ディサービスのスタッフの方々、介護タクシーの運転手さん、介護福祉用品をもってきてくれた事業所の方、などなど、本当に多くの方に支えられて、母は生きる気力をとりもどすことができたと思います。
本当に感謝です。
そして、最後は気力をふりしぼってがんばって、自分で「尊厳ある生き方」を勝ちとってくれた母に感謝しています。
とうことです。ではでは。