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私の留学体験記(8) 授業は一緒につくろうよ

私のトロント大学での留学体験シリーズの第8回目です。

今回のテーマは、授業は受け身ではなく、教員やクラスメイトと一緒に作って行った方が、面白いよということです。

1:スタート地点ではどっちも優秀

私は、39歳で留学した時に、すでに10年以上の教員経験がありました。

そこで、日本の学生とカナダの学生がどんなに違うんだろうととても興味をもっていました。

私の予想は、カナダの学生、特にトロント大学はカナダでも一流の大学ですので、日本の学生よりもきっと優秀に違いないと思っていました。

ただ、私は、学部生の講義に参加したことがないので、これはあくまでも大学院生の講義に参加した時の話です。

で、私は自分の大学院博士課程の講義以外に、修士課程の比較的若い学生の講義を聴講させてもらったことがあります。

その時の、私の第一印象は、「あれ、日本人の方がもしかすると、優秀かも」ということでした。

なぜかと言うと、講義の初日にカナダの学生が発表する内容や考えを聞いてみて、その日1日だけから判断すると、私の知っている日本人の大学院生達の方が、もうちょっと優秀かなと思えたからです。

しかし、その科目の講義を何日も受けて学生と討議をする時間をもって、多くの場面の観察をするにつれ、私の考えはだんだん変化していきまいした。

たしかに、修士課程に入学した最初のレベルでは日本での学生とカナダの学生に差はないかもしれません。

でも、たぶん、その修士課程が修了した時には、カナダの大学で学ぶの学生の方が日本の大学で学ぶ学生よりも確実に学びが深く、成長していくだろうなと思いました。

この違いはなぜ起こるのか、これは、講義のあり方だけでなく、学生の講義への参加の態度にあると思いました。

このことについて少し話をすすめたいと思います。

2:日本での学生の授業にたいする考え方

最近は日本の大学でも多様な教育手法が使われていて、公儀ひところの教員による一方的な講義というのは少なくなっています。

アクティブラーニングといって、学生に講義中に多様な活動に参加をさせることで、より講義を充実させていこうと言う動きはもうずいぶん前から進んでいます。

ただ、私が40年近く前から大学生を教えてきた経験からすると、学生の講義に対する態度はそんなに変わっていないと思います。

どういうことか言うと、講義に対して日本人の学生は基本的には「受け身」であるということです。

例えば、学生側は講義はそもそも教員がつくるもので、その質についての全責任は教員側にあると考えるということですね。

つまり学生は、講義を受ける自分達の権利だけにしか関心がないということです。

実際に、講義の後に学生に自分が受けた講義がどうであったかということにアンケートをとる「授業評価」というものをほとんどの大学は行います。

これは、学生からの一方的な評価をもとに、教員は自分の講義を評価されて、大学側からは改善を求められるということなんです。

ここで問題なのは、アクティブラーニングを用いて教員が教育の質をあげるように工夫をしたところで、学生達の方に参加の意思とか、講義を一緒によくしていこうとする姿勢がなければ、教員側の努力は徒労に終わるということなのです。

私は教育をより良くするためには、教員側の責任だけでなく、学生にも責任があると思っています。つまり、教育は基本的には協働作業であるべきなのです。

しかし、実際の場面を振り返ると、教員がいろいろとしかけをしても、乗ってこない学生は多いですし、また講義中に質問をしたところで、他人事のようにふるまって、黙って答えずクラスが静まり返っても、学生は知らん顔ということは日常茶飯事です。

先日の記事にも書きましたが、教育はサービス産業の一つですからね。

だから、日本では、多くの大学教員はいつも消費者である学生に「講義の質」を問われ、そして最良のサービスをどうしたら提供できるのかを、常に考えるように言われ、悩みながら孤独に戦っているわけです。

でも、これでいいのでしょうか?

3:カナダの大学生の講義に態度

カナダでは日本とはかなり違うのです。

学生は皆講義中積極的に発言し、そしてクラスをもりあげようと協力する姿勢が多くの学生に見られます。

向こうの大学で講義に対する参加(participation)といのが学生の成績評価の一つの項目にありますが、これは単なる出席率ではなく、このように講義に積極的に関与することをさしているのです。

だから、教員のクラス運営にいろいろと意見をすることも当たり前で、教員もそれを期待しています。

たとえば、わたしの経験したことでは、講義に招いた特別講師がふさわしくないと、講義が終わって学生達が科目担当の先生に意見を伝えている場面がありました。

私はその講師に得に不満がなかったのですが、他の学生はその講師の発言に「民族差別」的な内容があったと指摘して、問題であったとと伝えていたんですね。そして、教員は、それに対して「ああ、自分は気が付かなかった」と反省をしている場面がありました。

このように意見することで、教員も自分の考えの誤りあるいは自分の教育内容がそのクラスにとって適切かどうかということににきづき、学んでいくことができます。

それで、結果としてどんどん講義の質が上がっていく。

また、私の通っていた語学学校での出来事で、よい事例があります。

私の参加したクラスの学生はほとんどがアジア人でその学生の間で、担当のインストラクターの教え方に対する不満が溜まっていました。

ただ、私たちは不満をそのインストラクターに伝えることもなく、黙って講義を受けつづけていたんですね。

ある時、そのクラスに途中からブラジルからの留学生が入ってきたんです。そして、その留学生も一緒にランチをたべたりしてアジア人の私達と仲良くなり、私たちのインストラクターに対する不満を聞いてうなづいていたんですね。

ただ、数日経ったある日、そのブラジルの学生が私たちに向かって言ったのです。

「私、わかったわ。なんでインストクターに問題があるのか。」

アジア人の私たちは、その子の方をむいて「えっ どういうこと?」と聞き返しました。

そして、その子が言ったんです。

「皆インストラクターに問題があるって思っているのに、それを本人に言ってないじゃない。なんでそのことを伝えないの。言わなければずっと変わらないわよ。」

つまり、そのインスラクターの教え方に問題があるのは、教えられる生徒の方が黙っていることが原因なんだというのです。

私は「なるほど」と思いました。

そうです。私たちは自分達は、その語学学校のインストラクターに完璧をもとめ、受け身になってしまっていました。

「へたくそだな」と思っていたけど、それを改善するための提案をすることもなく、「ひどい、ひどい」と陰で批判をし、そしてお互いに愚痴を言い合っていただけです。

なんと非生産的な行動でしょう。

4:教育とはは教員と学生の協働作業

このカナダの例や、語学学校での例がおしえてくれるのは、講義というのは教員だけががつくるものではないということです。

学生との相互作用をもとに、教員も自分のやりかたの欠点に気がつき、改善していくんですね。

つまり、教員を学生と同じ「学習者」なんです。

このように考えると、講義は学生と教師が一緒につくりあげるものということに納得できると思います。

そうすることで、講義はとても面白くなり、お互いにメリットがあります。

私のカナダの指導教授はいつも私に言いました。

あなたが留学生としてクラスで貢献できることはなに?」

つまり、クラスに参加して自分にできる貢献して、講義を一緒につくってほしいと。

そして、それが、留学生としてのあなたの責任だよと。

ではでは。


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