ある別の世界の節分について

 毎年節分が終わると我が家の縁側の下に身を寄せ合って震えてる鬼達がいます。
 我が家では節分の豆まきをやらないので、ここは安全だと鬼達も本能でわかるのでしょう。
 また今年もか、と、罪もないのに家に招き入れられ、突然豆をぶつけられ、2月の寒空の下に追い出される鬼達を思うと可哀想とは思うのですが、同情はいくらでもできても、懐事情はどうにもなりません。
「可哀想ね、いくらでもここにいてもいいけれど、ご飯はあげられないの」
 鬼がここに集まるようになった最初の頃は、あまりにも可哀想で見てられなくて、お世話をしていたのですが、そうすると鬼達は毎年どんどん増えてしまい、ついには赤、青、黄と庭は色とりどりの鬼の縄張りになってしまい、どうしようもできなくなりました。近所から鬼達が夜中に騒いでうるさいとか、庭でフンをしたりするからどうにかしてくれ、と苦情がくる始末でした。
追い出したのはあなた達でしょうに。と、毒づきたい気持ちもありましたが、もし逆の立場だったら、私はご近所さんと同じことを思ったでしょう。浅はかな感傷で動くものではないなと思い知らされたのでした。

 縁側のしたから怯えた様子でこちらを伺う鬼達が、震えながら、瞳を揺らして、涙を溜めて、こちらを見つめていました。こういう目を向けられると、どうにも浅はかな感傷をまた抱いてしまいそうになります。ぐっと込み上がる気持ちを抑えて、本来の目的であった洗濯ものを物干し竿にひっかけました。部屋に帰るドアを開ける時に背中越しに恨めしげにこちらを見つめる鬼の視線を感じた気がしました。

 ゴミを出しに行く道すがらにも命からがら豆まきから逃げ出した鬼達の姿が見えました。
 早起きな住人達は面白いものを見つけたかのようにニヤニヤしながらその鬼達を見ていました。本当は豆を投げたくて仕様がないのかもしれません。ですが、それは条例で禁止されています。もし、天然の鬼に豆をぶつけてしまった場合法律で罰せられるからです。
 鬼に豆はとても毒です。少しでも触れたらそこから腐り落ちてたちまち死んでしまうのです。どちらにせよ、養殖鬼は狩の術を知りませんから遅かれ早かれ死んでしまうでしょう。
 ぞっとしながら私は目を逸らしゴミ捨て場へと急ぎました。
 でも、目を逸らしても意味なんかないのはわかっていました。
 ゴミ捨て場には昨日まで鬼だったもの、今はもうなにかわからないものが、色々なサイズのゴミ袋の中に押し込められて廃棄されていました。小さなゴミ袋に入った小さな鬼。大きなゴミ袋に入った大きな鬼。もうかつて何体だったのかわからないほどにぎゅうぎゅうに押しつぶされた鬼。
 お腹の奥から不快な気分が込み上がってきました。まだ朝ごはんを食べていなくて良かったと思いました。もし朝ごはんを食べていたら私は戻してしまっていたでしょう。
 この街に引っ越してもう数年経ちますが、今でもこの文化には馴れません。
 馴れたいとも思いません。
 私は自分のゴミ袋を、鬼達が詰まったゴミ袋から少しだけ離して地面に置きました。
 そして、踵を返して我が家へと逃げるように帰りました。また、視線を感じました。今度はもう死んでいるのに。あれはもう死んでいるのに!

 テレビをつけるとニュースでは今日も世界中の大変なことを映像で流したり、映像に合わせて早口ではっきりとした滑舌で読み上げたりしています。
 地域のニュースのコーナーになると、昨日の節分の様子が映し出されました。養殖場からトラックにぎゅうぎゅうに詰め込まれた鬼達が街へと運ばれる様子。何台も何台もトラックが連なりそこから鬼達が一斉に飛び出す様子。今から豆をぶつけられ殺されることも知らずに、自由になった喜びに打ち震えた顔、仕草、でも、生の喜びを味合わせるのはこれから始まる地獄へ向かう最後のご褒美なのかもしれません。ご褒美? 今から死ぬのに? 自由を味合わせるの?
 解き放たれた養殖鬼達は本能で民家へと吸い込まれていきます。
 そして「鬼は外! 福は内!」という明るい異種族の素朴な幸福を願う言葉を聞きます。
 彼らにはそれが何を意味する言葉なのかはわかりません。ただ、確実なのは、人類にとっての祝福の言葉は鬼にとっての呪詛の言葉、人生の最後通告であるということだけです。
 画面の中で何体もの鬼達が豆をぶつけられて、腐って、どろどろのばらばらのぐちゃぐちゃになって死んでいきます。私はリモコンを手に取りました。ぐっと力をこめます。それが怒りなのか哀しみなのかわかりません。チャンネルを変えたいという気持ちがあるのですが、どうしてもそれができないのです。
 アナウンサーがよく通る声で「今では節分を行う家庭も少なくなっているそうですが、伝統文化が末長く続いていくとよいですねえ」としみじみとした調子で言い、コーナーが終わりました。
 伝統文化。伝統文化だから? これは許されているの?
 じゃあ、もし、伝統文化じゃなかったら?
 私はそうテレビに向かって問いかけました。でもテレビは何も答えてくれませんでした。
 
 夕暮れ、洗濯物を取り込みに縁側に出ると、鬼達がまだいるかしら? と思い、縁側を覗き込んでみると鬼達はもういませんでした。遠くから車の音が聞こえます。市の鬼収集車です。こうやって豆まきから逃れた鬼を捕まえて、連れていくのだそうです。どこへ? 屠畜場か、ゴミ処理場か、元いた牧場か。真相を知りたいと思う気持ちと、知ってはいけないという気持ちが二つあり、私はいつも知ってはいけない方を選んでしまいます。知ってしまったら、もう、きっと私はここには住めないでしょう。人間を信じる気持ちもなくしてしまうでしょう。私は鬼ではありません。人間なのですから、人間の世界で生きていかなくてはならないから、人に優しく親切でありたいから。もし、それができなくなってしまったら、私は一人で生きていくしかないと思うのです。そして、一人で生きていけるほど自分は強くないことを私は知っているのです。
 
 夜のニュースでも豆まきについてのちょっとした特集が組んでありました。しかし、そこでは、現在の節分の問題についてを語っていました。
 今の時代に豆まきのためだけに養殖鬼を育てるのはどうなのか? 確かに養殖鬼を使うことによって資源としての鬼問題は解決したが、倫理的な問題は依然として残っている。これはこの国の伝統文化だから、守っていかなければならないという意見は、今進歩を続けている生物の知覚や感情の問題を無視している。鬼はとても知的な生命であり、痛みを感じ、同族を思いやる気持ちを持っている。これは生命に対する畏敬、尊厳の問題なのだ。そしてこれを考えることは、引いては人間の尊厳を考えることなのだ。と。
 この環境活動家の意見はSNSでは「妄言」とか「環境活動家は狂ってる」とか「他人の国の文化に口出しするな」とか、たくさんの罵倒を受けていました。私には、わかりませんでした。SNSユーザーがいっていることが、ではありません。
 なにが正しいのか? という、あまりにも、あまりにも根本的なことについてです。
 私には何が正しいのかがわかりません。ただ食べるわけでもない鬼を養殖するのも、殺すのも、私には、とても、いやなこと、だということだけでした。

 どんなことを思っても、どんなことを考えて、感じても、地球は周り、太陽をめぐり、明日はやってきます。
 洗濯に縁側にでてももう鬼はいません。
 ゴミ捨て場にも鬼の死体はありません。
 スーパーの節分コーナーは撤去され、バレンタインの売り場が広くなっていました。
 全てが夢だったかのように、今年の節分は過去の中に消えました。
 過去に戻れない私たちは明日への希望や心配を胸に、当たり前の今を今日も積み重ねていくのでしょう。
 
 その今の裏側に、来年殺されるために育てられる養殖鬼がいることを時々思いだしながら。 

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