当たり前って実は凄い


昨日のnoteにて、負けることの大切さを偉そうに語ってしまったが、その記事内で「競馬ファンなら当たり前に理解している事かもしれないが…」として、馬の成長とレースでの着順が必ずしも比例するわけではないという事を書かせて頂いた。


この「当たり前」という感覚。

日頃から競馬を見ているファンならば、レースでの着順というのはあらゆる要素が合わさってのものである事が容易に想像できるが、普段競馬を見ない人がレースを見た場合、決まった着順は「速い順(強い順)にゴールしたんじゃないか」と思ってしまうだろう。むしろそれが自然である。


つまり「当たり前」というのは、同じことをやり続ける事で生み出されるもの。いわば日々の積み重ねで生まれるものだということが分かる。
当たり前を辞書で調べると「そうであるべきもの」「普通のこと」などと出てくるが、そうであるべきと常識化するには日々の積み重ねが必要で、何かに対して当たり前を作った人はものすごい努力家だということ。


この価値観も、もしかしたら当たり前の事なのかもしれない。




ここからは私の個人的な話になるのでお時間のある方のみ読んで頂けると幸いです。


自分は競馬を見る上での最大の目的として「いい馬を見つけること」「歴史的名馬に巡り逢うこと」を掲げ、日々競馬を見ています。

いい馬というのは以前「強い馬といい馬の違い」という記事でも説明した通り、馬体やフットワークといった見た目にいい馬。
その中でも自分の好みな部分を多く持つ馬が、自分の中の「いい馬」という概念になります。

歴史的名馬はその名の通り、後世に語り継がれるような強い馬。時代を彩った最強馬とも表現できるでしょうか。
“巡り逢う”というのはただ単に歴史的名馬を目に焼き付けるのではなく、自分自身がその馬を「いい馬」だと感じ、好きな馬として応援し、歴史に名を残す過程をずっとファンとして見守っていける存在になりたいという想いを持って、巡り逢うという表現にさせてもらっています。


いずれにせよ「いい馬を見つけること」が第一の目標である事に変わりはなく、いい馬を見つけるためには何が必要か。
自分の出した結論は“数多くのレースを見て、いい馬をたくさん探すこと”に尽きると考えました。

そのために毎週末しっかり競馬を見て、開催のない平日には先週の競馬を全場1レースから12レースまですべて見返し、いい馬がいないかをくまなくチェック。
これを始めたタイミングまではハッキリと覚えてないですが、おおよそ8年前(2015年)頃から始めていたのではないかなと記憶しています。当然、一度も怠った事はありません。


日々の積み重ねのお陰で今では当たり前の事として毎週のルーティンになっているため、ある意味マンネリ化しつつある行動だと感じる事もあるのですが、このように記事にも書けるほど自分にとっては自慢できる誇らしい努力だと思っています。




どこにでもある「当たり前」も、それぞれが努力をし、日々の積み重ねで得たもの。
当たり前だからこそ普段は考える機会がないものの実は凄い事ばかりなのだと、ふと当たり前について考え、感じた次第である。




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