本を持ち歩いて生きる
ものごころついた頃から本が好きで、その時その時で本は変わるが、1冊の本に執着する性分なのにある時気づいた。幼児の頃は特定の絵本だった。何度も繰り返し目を通し、どこに行く時も持ち歩いた。小学生の頃は「星座を見つけよう」というタイトルだったと思うが、季節ごとに現れる夜空の星座たちを図解で解説した本が好きで持ち歩いた。その後、星に関連してギリシャ神話を解説した本を持ち歩いた。中学生になり、当時「ジョーズ」や「ポセイドンアドベンチャー」などのパニック映画が流行って次々に公開されていたが、そういった映画の原作の日本語翻訳本をよく持ち歩いた。「ジョーズ」はピーター・ベンチェリーという作家で、「ポセイドンアドベンチャー」はポール・ギャリコという作家だったと記憶している。
そのような本たちは今はもう手元にない。親も転勤族で数年ごとに家を引越し、持ち物を定期的に処分して生活していたからだ。執着した本たちを今でも持っていたらどんなに楽しかっただろうと残念に思っている。
カトリック教会はかつて「公教会祈禱文」という祈祷書で公同の祈祷をしていたらしい。わたしはその当時の現役の信者ではないので、実際に体験したわけではないのだが。現在では「公教会祈禱文」は書店で売っていないし、なかなか手に入らない。それでも「カトリックの祈り」や「祈りの友」といった現役の祈祷書に抜粋されて「公教会祈禱文」の文語体で格調の高い祈り文が載っている。
わたしは20年くらい前にカトリック信者になっている。その頃、東京四谷の書店で「カトリックの祈り」を入手した。たいへん気に入って、例のごとく持ち歩いた。ミサに出かける時はもちろん、ふだんもカバンにしのばせ、通勤電車の中でこそこそと読みふけった。
1995年初版発行とあり、巻頭の「発刊のあたって」によると、文語体による「公教会祈禱文」は長い間親しまれ、愛用されてきたが、第二バチカン公会議による典礼刷新、日本社会の変遷の中で、現代の教会にそぐわない典礼文や儀式文も見受けられる、このたび口語体による新しい祈りや典礼文は、カトリック中央協議会の「日々の祈り」「ミサの式次第」「ゆるしの秘跡」「ロザリオの祈り」「十字架の道行」を使用し、教会の財産として残しておきたい貴重な祈りの数々を「公教会祈禱文」より抜粋して、「カトリックの祈り」として生まれ変わらせた、とある。
「公教会祈禱文」からの抜粋と書かれている文語体の祈祷文は確かに格調が高くて、読んでて名調子だというのか、独特のリズムがある。そのうち、どうしても「公教会祈禱文」が欲しくなり、検索して探し、古本で入手した。当時はまだ3千円くらいで手に入った。現在では何万円もするようだ。
読むと、第二バチカン公会議による自国語でミサを挙げるといった典礼刷新前の、その当時ラテン語で挙げられるミサの間に、信者が黙読する祈祷文が載っていたりする。聖母被昇天や煉獄の思想などが盛んだったことをうかがわせる文も多い。「公教会祈禱文」も持ち歩いて愛読した。古本だったので、ページが取れてぼろぼろになった。最近思い切って修理に出した。その時のことを書いたものは以下。
「カトリックの祈り」を手にしながらミサに与って20年経った。去年ミサの式文が刷新された。ミサの進行の大枠は変わらないが、多くの式文に変更があった。つまり「カトリックの祈り」の中の「ミサの式次第」は使えなくなってしまったということ。
この4月に「カトリックの祈り 改訂新版」が発行されたので、すぐ入手した。新しい「ミサの式次第」が載っている。また今度も20年くらい愛用できるだろうか。20年経つ前に自分は寿命が尽きちゃうだろうか。本を持ち歩くという性分は他人に迷惑はかからないだろうし、このまま生きていこう。