喜ばれなかったプレゼント
20年以上前のこと、まだ東京で仕事をしていた頃、わたしはあるサークルに所属していた。そのサークルは、主にカトリック信仰を求める社会人たちの集まりで、わたしもその一員として週末や金曜日の晩に参加していた。当時、仕事や生活にさまざまな思いを抱えていたわたしは、このサークルの活動に深く惹かれ、かなり真剣に取り組んでいた。四谷の巨大なイグナチオ教会での入門講座や、上智大学の構内にある聖堂でのミサ、そして上石神井で開かれる黙想会など、いろいろな活動を通じて、上智大学の哲学の教授でもあったリーゼンフーバー神父の指導のもと、たくさんの求道者が集まっていた。神父はわたしたちを温かく見守ってくれていた。
その集まりは、わたしにとって生き方を見つめ直す場であり、信仰を深める指針を得ることができる貴重な時間だった。何よりも、集まりを楽しいと思ったし、そこに参加することが心の支えとなっていた。いつの間にか、わたしも熱心な信者になっていた。わたしと同じように、新たに参加する人々にも門戸は広く開かれており、多くの社会人が次々とサークルに加わっていた。
わたしがサークルの中堅メンバーとなっていた頃、神父からあるお願いがあった。それは、同じ年代くらいの新しい参加者の代父を務めてほしいというものだった。代父というのは、カトリック教会において、入信式で新たな信者の信仰を支える役割を果たす立会人のこと。入信式とは、数回のサークルの集まりを経て信仰に興味を持った求道者が、その後、自分の事情に合った期間をかけて信仰を学び、教会の教えを受け入れることを表明する儀式。この式には、信仰の先輩である代父や代母が立ち会うのが通例。
神父からその役割を任されたわたしは、責任の重さに緊張したが、それでもなんとか無事に入信式を終えることができた。入信式の前日、わたしはその新しい求道者へのプレゼントを準備しようと、四谷にあるサンパウロを訪れた。店内を歩き回り、いろいろな本を見比べながら悩んだ末に、「無名の巡礼者ーあるロシア人巡礼者の手記」という本を選ぶことにした。この本は、19世紀のロシアで、一人の農夫が信仰の道を求めて国内を巡礼し、各地の司祭から指導を受けたり、様々な人々の話を聞いたりしながら、信仰を深めていく手記。わたし自身もこの本を持っていて、何度も読み返すほど感銘を受けていたので、彼にも同じように感じてもらえたらと思ったのだ。
入信式が終わった後、軽いお茶会が開かれ、そこでその人にプレゼントを渡した。彼は最初、にこにこと笑顔を浮かべていたが、プレゼントの袋を開けて本の表紙を見ると、少し困惑したような顔をした。本をぱらぱらとめくりながら、明らかに戸惑った表情を見せた。もしかしたら、常識的ではない異常なプレゼントだと受け取られたのかもしれないと、その瞬間、わたしの心は冷えてしまい、自分が嫌になった。そして、それ以降、その人はサークルに顔を出さなくなってしまった。
しばらくして、神父がいつもの寂しげな表情で「〇〇さんが最近来ていないようだけど、連絡を取ってくれませんか」とわたしに尋ねた。しかし、わたしはその人の連絡先を聞いていなかった。「わかりました」と返事はしたものの、どうしようもなく困ってしまい、結局そのままになった。幸いにも、その後神父からさらにその件について問われることはなかったが、わたしの中には自分の行動への後悔が残った。
もしかすると、わたしの不適切なプレゼントが原因で、彼の信仰の未来を台無しにしてしまったのではないかという思いが消えず、ひとりよがりな選択だったのではないかと何度も自問した。せめて連絡先くらい聞いておけばよかったと後悔したが、もう遅すぎた。
こうした苦い経験を抱えつつも、わたしはその後もサークルの一員として活動を続けた。次々と新しい求道者がサークルにやってきたが、わたしはそのような人々との深い関わりを極力避けるようになってしまった。わたし自身、誰かを信仰に導く経験を持っておらず、自分の信仰を守るだけで精一杯だった。
最近では、若者の宗教離れが進んでいると言われるが、それはわたしが若かった頃も同じだと思う。宗教に惹かれる人というのは、結局、宗教的な気質を持った人がその道を選ぶものなのかもしれない。わたし自身、そのような気質があって、宗教に導かれたのだと思う。今でもわたしは「無名の巡礼者」を時折読み返しており、その本は20年以上も経った今、すっかりぼろぼろになってしまった。この本をまた手に取り、読み返してみようか。
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