読書体験ーどちりなきりしたん
以前から気になっていた「長崎版どちりなきりしたん」(岩波文庫)を入手し、時間をかけて味読しました。安土・桃山時代、つぎつぎに外国人宣教師が来日して積極的な布教活動が行われました。表題の「どちりなきりしたん」とは「キリスト教の教義」の意で、問答形式による教理書です。教えを説くために当時の平易な俗文体が用いられています。慶長5(1600)年の印刷だそうです。
こんな感じの文章です。
〇ベナベンツランサは八あり。
一には、スピリツのひんじや(貧者)はてんのくにその人のなるによて果報なり。
二には、にうは(柔和)なるものはち(地)をしんだいすべきによてくはほうなり。
三には、なくものはなだめよろこばせらるるによてくはほうなり。
四には、ジュスチシヤとてごしやうと、善のきかつ(飢渇)ある人はばうまん(飽満)させ玉ふべきによてくはほうなり。
五には、じひある人は御じひをうくべきによてくはほうなり。
六には、心きよき人はDを見奉るべきによてくはほうなり。
七には、ぶし(無事)ある人はDの御子とよばるべきによてくはほうなり。
八には、ジュスチシヤとてごしやうと、ぜんにたいしてせばめらるる事をしのぐ人はてんのくにその人のなるによてくはほうなり。
ベナベンツランサとかスピリツとかジュスチシヤとか、ラテン語の読みをそのままカナにしています。巻末に用語解説がついていて、本文と巻末を行き来しながら忙しく読みました。
かな文も繰り返し声に出して読んでやっと意味がつかめます。これは聖書のこの部分の紹介のようです。マタイによる福音書第五章3〜10、口語訳。
こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
こんな文章もありました。
○あやまりのオラショ。
万事かなひ玉ふDをはじめ奉り○いつもビルゼンのサンタ マリヤ○サン ミゲル アルカンジョ○サン ジョアン パウチスタ○たつときアポストロのサン ペイトロ ○サン パウロ○もろもろのベアト○又御身バアテレに〇こころことば、しはざ(仕業)をもて○おほくのとがををかせる事をあらはし奉る○これわがあやまりなり、わがあやまりなり○わがふかきあやまりなり○これによてたのみ奉る○いつもビルゼンのサンタ マリヤ○サン ミゲル アルカンジョ○サン ジョアン バウチスタ○たつときアボストロのサン ペイトロ○サン パウロ○もろもろのベアト○又御身パアテレ○わがためにわれらが御あるじDを○たのみ玉へ、アメン。
これはカトリックに伝わる定式文の祈りでしょう。古書で手に入れた「公教会祈禱文」(昭和33年発行)より。
告白の祈
全能の天主、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人にむかいて、われは思いと言葉と行いとをもつて多くの罪を犯せしことを告白し奉る。これわがあやまちなり、わがあやまちなり、わがいと大いなるあやまちなり。これによりて、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人に、わがためにわれらの主なる天主に、祈られんことを願い奉る。
願わくは全能の天主、われらをあわれみ、われらの罪を赦して終りなき命へ導き給え。アーメン。
願わくは全能にして慈悲なる主、われらをあわれみ、罪の赦しを与え給え。アーメン。
声に出して読みながら、当時の俗文体のリズムにすっかり魅せられました。まるで呪文を唱えているような気分にさせられます。安土・桃山時代の南蛮文化の隆盛がしのばれます。国語資料としてもたいへん貴重らしいです。おもしろい読書体験でした。あなたもぜひどうぞ。