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飾りじゃないのよ涙は

北の港町に転勤になった。家族を都市において単身赴任した。あてがわれた住宅は勤め先に近く、近所に勤め先の先輩の職員が住んでいた。先の春に定年退職し、臨時職員扱いで同じ勤め先に勤務していた。津山さんは、小柄で痩せているが、ガッチリした体格と、頑固そうな顔の人だった。

「中ちゃん、うち来て一緒に飲まないかい?」ある夜、津山さんから携帯に電話が入った。夕食を食べ終えて暇にしていたので、すぐ向かった。勤め先の建物を挟んだ向かいの近くの一軒家が津山さんの家だった。津山さんは一人で暮らしていた。後から知った話だが、津山さんは若い頃結婚したが、程なくしてすぐ離婚し、それ以来、一人で暮らしているようだった。原液のままの焼酎をすすめられ、コップで飲んだ。あまり多くは話さなかった。わたしは口下手だし、人付き合いも苦手だった。人と話していて最低限のお世辞を言うこともできなかった。1時間ほどそうして飲んだ後、津山さんが「街に飲みに出ようよ」と言った。

小さな町だったが、港がある町のせいか、スナックなどが軒を並べている一角があった。一角のはずれの坂道を登ったところに「のばら」という店があった。津山さんと同年代くらいのママが一人でやっている店だった。二人でカウンター席に並んで座り、焼酎のお湯割りを飲んだ。ママの人柄なのか、なかなか人気のある店で、町の人たちが次々と訪れた。カラオケが始まり、わたしは「そして神戸」を歌い、津山さんも「イヨマンテの夜」を歌った。

それから度々、津山さんの家で飲んで、8時ごろになってから「のばら」に行った。あまり多くは話さなかったが、津山さんにとってそれがよかったのだろうか。週一回のペースで誘われた。ある時、津山さんの家で焼酎を飲んでいると、「中ちゃん、これ聴こうよ」と言って、テレビの電源を入れた。小澤征爾のオーケストラが「ラデツキー行進曲」を演奏しているDVDがかかった。観客も興にのって熱心にリズムに合わせて手拍子していた。「これいいよね」と津山さんは上機嫌だった。

夕方、少し残業してから勤め先の建物を出ると、津山さんと「のばら」のママが家の前の庭で何か楽しそうに話しているのが見えた。

ある時、津山さんが「明菜の、わたしは泣いたことがない〜、っていう歌が好きなんだけれども」と言ったので、CDショップに行って探した。ちょうど中森明菜のベスト盤があり、目的の曲が入っているのを確認してから買った。夜、津山さんの家に持っていくと、早速テレビの内蔵DVDにセットした。津山さんは流れてくる歌に聴き入った。「のばら」で津山さんはその歌をカラオケで歌った。「飾りじゃないのよ涙は、ホウ、ホウ〜」とかなり調子が外れていた。

わたしはまた転勤することになった。4月の朝、勤め先の人たちと向かいあい、津山さんも「のばら」のママと並んで見送ってくれた。この港町に来て3年経っていた。津山さんにとって、わたしはおとなしい、いい飲み友達だったのだろう。

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