読んでない人にこそ知ってもらいたい「疾風伝説 特攻の拓」に見る所十三先生の凄み
今から79年前。
世界最悪の規模で行われた第二次世界大戦が日本の降伏を持って終結した。
戦後、日本はアメリカGHQの指導の元、様々な改革が行われ、その後1952年に日本は主権を回復。
その後、怒涛の経済発展を遂げる事となる。
中でも日本が得意としたのが自動車、バイク、家電といった工業である。
性能、安価さ、アメリカの産業を破壊するほどの勢いで急成長する。
さしずめ、特筆すべきはHONDAの技術者であった本田宗一郎のエンジン技術で、世界初のロータリーエンジンを開発した事は2024年現在でも日本が何とか車産業におけるプレゼンスを維持できている遠因となっている。
戦闘機を開発していた重科学産業は解体され、その技術力は車や航空旅客機へと転用されていったわけだが、ぽっかりと空いてしまったのは若者の心だった。
つい最近まで戦争で兵隊になるのを最上としていたのが、勉強につぐ勉強。暴力による管理教育。
オートバイを手に入れた富裕層の若者達はアメリカ映画に憧れ、ハーレーとは似ても似つかないカワサキのマッハやホンダのCBを無理やりチョッパー仕様に改造しようとし、その過程でいわゆるリーゼント風防や3段シートといった日本独自のカスタムが産まれていく。
ぶつけようがない怒りや苦しみを、やはり技術をぶつける所がなくなって産まれた必要以上に速い国産バイクでぶっとばす若者達を戦争を知る世代はどんな目で見ていたのであろう。
その想いの結果、この頃の暴走族は大人達から容認されていた。
しかし時代が下り、70年代、80年代となるとツッパリはファッションなり、暴走族は掟に支配されていた。
今の物価高では考えられないくらいにバイクは安くなり、中古や盗難が多発した結果誰でも乗れるものとなった。
大人のせいで勝手に戦争が始まって終わり、管理されていく理不尽な社会に対する「ツッパリ」は高度経済成長を終えバブルへと入っていた時代「何マジになっちゃってんの?」という90年代的なシラケの価値観へとすり替わり始めていた。
「暴走族」が管理教育や学歴社会に対するクーデターだとすれば、ゆとり教育が推進された90年代にその戦いは終わったのかもしれない。
80年代以降のヤンキー漫画も人気作はどれもギャグ漫画ばかりであった。
その時代の終わりに現れた最後の傑作ツッパリ漫画が「疾風伝説 特攻の拓」である。
この漫画はいじらめられっ子であった主人公、浅川拓が暴走族「横浜外道」の構成員加納秀人と出会い成長していくという王道のストーリーだ。
しかし、原作者の佐木飛朗斗先生はヤンキー漫画に児童文学やオカルトなどの超次元的要素、更にはバイクそのものへのディティールの細かさ、設定の難解さが特徴で、いくつもの漫画家とタッグを組んでいるが、謎が謎のままであることも多い。
そんな中で作画・構成を担当する所十三の表現力は本当に見事だ。
まず、横浜のヤンキー文化を見事にディフォルメした上で「何故こうなっているのか」についての完全に解釈しきっていなければ書けないような描写が多い。
各キャラクターの単車に対する思い入れ、何故このカスタムになったのかまで読めば読むほど納得してくる。
信じられない事に各単車の生産された大体の年式や、その年式であるが故の仕様に関しても描写がある。具体的に言うとヒロシのZIIがD1だったり、スオウのCB750がK2だったりするところだ。
そんなものは無しにしてもいいはずなのに、あるおかげで妙にリアリティが増す。
更にはそこで渾名がついて「どシャコの“ケーツー”」なんて言ってしまうのも味がするポイントだ。
それ以上に近年俺が注目するのは人間関係やそれぞれの家庭環境の描写だ。
作品は死んでしまった伝説の先輩「半村誠」に触れるにつれ、徐々に悲壮感に満ちていく。
この「半村誠」の死をどう解釈するかで、元々は仲の良かったチームが分家していく様はさながら宗教の対立のようだ。
普段の佐木 飛朗斗先生の漫画であればこの辺りから難解になってしまうところを、所十三先生は関係図を漫画に出して「わけがわからない」などとあえてツッコむ事で読者離れを防いでいる。
また、圧倒的画力で描かれるキャラと単車の魅力も引きを作っている。
話がごちゃごちゃになって投げ出したくなる前に「次はどんなキャラがどんな単車に乗って出てくるんだろう」と楽しみで読み進めてしまう。
それぞれのキャラの最小限の家庭環境の表現もうまい。
例えばカズは家に爆音小僧の呼び出しの電話がかかってくるのをコソコソする事で「多分親に暴走族なのを内緒にしているんだな」と判り結構家ではイイコなのかもしれないと推測できるし、無茶苦茶ごつい慈統が親から晩飯に呼ばれている所などで、意外に人間味があるというか、ゴツいけど社会性はちゃんとある事がわかる。
それ以上に見事だと思ったのが、マー坊の家庭内描写。
武丸との決戦を前に鏡の前でハチマキを巻き凄むマー坊。
テーブルの上には母親と思わしき晩御飯に関する置き手紙。
マー坊は隠していた木刀を引っ張り出し、外に出る。
団地の駐車場からバイクを押して出し、決戦へと向かう。
ほぼセリフ無しで描かれるこのシーンは圧巻だ。
何の説明もないのに、絵だけで恐らくマー坊は母子家庭で夜の仕事をしている貧困家庭。
しかし母親との仲は悪くないだろう。特に暴走族であることを秘密にもしていない、何故ならマー坊からすればそれは悪い事だとは思っていなくて自然体だからだ。しかし木刀は隠している。普通に考えて息子が木刀を持っているのは危険なので母親を心配させたくない。団地でオラオラとバイクを吹かさず、団地から押して出すマー坊の姿にも優しさが見える。
たったこれだけのページでここまで表現できている漫画もそうは無い。
物語の後半は「スピードの向こう側」に対する解釈、そして誰とでも仲良くなりすぎた拓の友情とは何なのか、という葛藤、そしてその先にある「何で僕らは仲良くなれないのか」という交錯する想いが猛スピードで展開していく。
この頃の全体に漂う悲壮感はまさしく戦後に全てが納得いかなくて高級な国産バイクで暴走する少年達の心情と一致する。
そして現代に至るまで賛否両論のあの最終回へと繋がって行くのだ。
佐木先生の余りにも想いがありすぎて常人には表現出来ない世界観を描き切った所先生。
この二人のぶつかり合いがあったからこそ、いまも特攻の拓は圧倒的に魅力的なのかもしれない。
是非、全国の学校図書館に置いて欲しいものだ。
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