「不思議な“世界最小国”ヴァチカン市国が成り立つまで」世界遺産の語り部Cafe #23
今回はヴァチカンの世界遺産🇻🇦【ヴァチカン市国】についてお話していきます。
“世界最小国”キリスト教世界の最重要聖地
ヴァチカン市国は、世界最小国として知られるカトリック中枢の独立国です。
イエス・キリストの1番弟子「聖ペテロ」の墓所があったとされるヴァチカンの丘には、壮麗な建築様式が魅力的な「サン・ピエトロ大聖堂」がそびえ立っています。
“聖ペテロ”の意味を持つサン・ピエトロ大聖堂は、1506年に着工され、「ドナート・ブラマンテ」や「ミケランジェロ・ブオナローティ」らの手によって1626年に竣工しました。
17世紀には「ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ」によって改築、140体の聖人像が立つ「サン・ピエトロ広場」などが加えられました。
また、大聖堂北にあるヴァチカン宮殿には、ミケランジェロの描いた「最後の審判」で有名な「システィーナ礼拝堂」があります。
ヴァチカン市国誕生まで”3つのキーワード
キリスト教の総本山かつ、ローマ教皇を国家元首とするヴァチカン市国は、どのようにして成立したのでしょうか。
世界最小国家、ヴァチカン市国誕生までの経緯を理解するには、大きく分けると下記のような3つのキーワードがあり、時系列順にお話していきます。
教皇国家
ローマ問題
ラテラノ条約
① ピピンの寄進と教皇国家
教皇国家とは文字通り、「ローマ教皇」が治めていた領域を指しますが、教皇国家の成立時期は8世紀中頃、フランク王国「ピピン3世」の統治時代まで遡ります。
ピピンは、シャルルマーニュこと「カール大帝」の父であり、「カール・マルテル」の息子でもあります。
「トゥール・ポワティエ間の戦い」でイスラム勢力を撃退した偉大な父、カール・マルテルの死後、次期国王には「メロヴィング朝」のキルデリク3世が擁立されることになります。
一方でピピンは、兄カールマンが修道院に隠遁したことで、宮宰としてフランク王国の実質的な実権を握ります。
そこでピピンは、当時としては絶大な権力を誇っていた「ローマ教皇」に取り入って、このように伺いを立てました。
ローマ教皇の出した結論は、“ピピンが王となるべきだ”という回答でした。
この言葉を後ろ盾にして、メロヴィング朝を断絶、新たに“カールの”を語源とする「カロリング朝」を創設します。
それに留まらず、王となったピピンは謝礼として、イタリア北部ランゴバルド王国の「ラヴェンナ」を占領した上で、その土地をローマ教皇に寄進しました。
いわゆる“ピピンの寄進”と言われたこの地より、ローマ教皇が直接治める「教皇国家」はこうして誕生することになります。
② リソルジメントが引き金の“ローマ問題”
時は変わって19世紀、「イタリア統一運動(リソルジメント)」の中心人物となった「ガリバルディ」率いる赤シャツ隊はイタリア南部を統一します。
一方で、北部側は「サルデーニャ王国」が統一したことで対立構造になるかと思いきや、ガリバルディが「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世」に王位を譲る形で「イタリア王国」が成立しました。
ところが“ピピンの寄進”から1100年以上を経たこの時点で、“教皇国家”が未だ残存し続けていたことにより、初代国王となったエマヌエーレは、教皇国家のイタリア併合を強引に押し進めようとします。
当時のローマ教皇「ピウス9世」は、この方針に激怒し、イタリアとの国交を断絶、自らを“ヴァチカンの囚人”と称して、ヴァチカンの宮殿に立て籠ってしまいます。
キリスト教世界の枢軸を担うローマ教皇を無下に扱ってしまったことで、「イタリア vs ローマ教皇」の確執は20世紀まで引きずり、一連の出来事は総じて「ローマ問題」と呼ばれました。
③ “ファシズムの元祖”ムッソリーニ
両者に雪解けの瞬間が訪れたのは、1929年「ベニート・ムッソリーニ」政権の時代でした。
自らの国際的地位の向上を狙って“ローマ問題”の解決に着手したムッソリーニは、ローマ法王庁との間で「ラテラノ条約」を締結します。
ラテラノ条約の内容は、「“ヴァチカン地区限定”ではあるものの、法王庁が国家主権を持つことを法的に認める」というもので、これにより正式に独立国家「ヴァチカン市国」が成立することになります。
権威ある法王庁に対して敬意を払う形にて、緊張の緩和をもたらした条約の締結は、古代ローマにおける権威の象徴であった“ファスケス”を語源とする“ファシズム”の提唱者、ムッソリーニならではの機転であったと言うべきでしょうか。
ともあれ“国全体が世界遺産登録されている唯一の場所”は、このようにして誕生しました。
世界最小のミニ国家でありながらも、歴史がたくさん詰まっているという点が面白いですよね。
【ヴァチカン市国:1984年登録:文化遺産《登録基準(1)(2)(4)(6)》】