10円玉、ひろった
今朝、10円玉、拾った。
昨日は5円玉を拾った。
しかもどちらも平成14年もの。
今まで生きてて道端で小銭を見かけたことも拾ったこともなかったからさすがに何かあるなとメモに書き出す。
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平成14年、何かあったっけ?
2002年。私が6歳のとき。
幼稚園のころの出来事か。
一つ思い出すことがある。
クラスメイトに、お外遊びの時間でいつも周りの子に砂をかけている子がいた。
「いけないんだ、先生にいっちゃお!」
先生に怒られたり、周りの子達に煙たがられている子だった。顔はよく思い出せない。
でも彼は明らかに"何か"をわかって欲しがっていた。それは強烈に覚えている。
見て欲しくて、わかって欲しくて、そのエネルギーが"砂"としてぶつけられているのがよくわかった。
ぶつけた一瞬、その子のところへ大人たちが一斉に目線を向け、駆け寄るのだ。だから、わかってもらうためにまた、懸命に砂をぶつける。そんなふうに見えた。
何かわかって欲しいんだね、痛いね、みんな痛い。痛いよ。
「きっと親が悪いのよ」「何か問題のある子なのよ」「園の監督の問題だな」大人たちの声。
くるしい。
私はその出来事に、何もできなかった。ものすごくこの空間が嫌だった。けれども、体が動かなかった。だから笑ってじっとした。少し震えながら。
"大人、なんで子どもことがこんなにわからないの、助けようとしないの"
そんなものなのかもしれない。
大人には大人の事情があることは今となってはよく理解できる。
でも、どんな存在がどんなふうにいても大丈夫、になるよう枠を与えるのが大人たちじゃないの?
命を歓迎して、そのたびに適切な形に創成するのが大人の仕事じゃないの?
そういうのは期待できないということ?
小さいながらに、かなりかなりガッカリした記憶がある。これが社会なのだとしたらわたしやっぱり許容、したくない。
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そういえば、インクルーシブ教育を探求したくて、デンマーク・オランダまで行ったんだっけ。
いろんなものが無条件に共存する。共生する。そうできるように社会の器を拡張する。
立ち返るけどここがマイテーマなのかもしれない。
どんな命も歓迎する社会にしたい
どんな子が生まれてきても、大丈夫、なのだ
安心して生まれてきてね、と言える大人でいたい。