OK5話

やりくり上手

私が小学生の頃の記憶では父のお給料は現金だった。
現場に行ったきりでほとんど家にはいない父だったが、必ず月に一度は帰ってきて母に封筒を渡していた。封筒の中身は1か月分の生活費。
母は渡されたそのお金で1か月やりくりをするのだ。
今のように給料が銀行振込ではない時代、お給料は働いた人が直接会社からもらうものだった。そして受け取った父がその中から生活費として母に現金を渡す。
当然ながら受け取った母は、
「ありがとうございます。今月もお疲れ様でした。」
父に頭を下げる。
母と父とのやりとりでは他にもこんなことが印象に残っている。
例えば父帰宅の際にかける言葉。
「あなたおかえりなさい、お疲れでしょう、先にお風呂になさいますか、それとも夕飯を召し上がってからになさいますか?」
玄関ではさっと父の脱いだ靴をそろえ、背広を脱ぐ時にはさり気なく後ろにまわり介添えをする。そして父は母が用意した丹前を着て私たちの前に現れるのだ。
そんな一連の流れが今も記憶に残る。
私が小学3.4年生の頃のことである。

ところで、なぜそれまで現金でもらっていたお給料が銀行振り込みに変わっていったのか。これを探るに、昭和43年(1968)に起きた3億円事件が大きなきっかけとなったようである。
※東京都府中市で1968年12月10日に発生した現金輸送車強奪事件。

とにもかくにもこのお給料が銀行振り込みに変わったことは、後に家庭の中の父の存在そのものや会話のやりとりに大きな変化をもたらしたのではないかとも感じている。

ところで『やりくり』とは何ぞや?
辞書によれば、『やりくりとはあれこれ工夫をして都合をつけること』とある。

人の人生に何が起こるかはわからないものである。

昭和50年9月、あっという間に父は他界した。
私が中学3年生の秋、14歳の時のことである。
その年の夏、父は私に『ちょっと行ってくる』と病院に出かけた。
胃潰瘍らしいとは嘘ばかりで、既にガンは食道から胃全体へ広がっていて、
一か八か開腹手術はしたもののそのまま閉じるしか手がなかったと聞く。
そして父は見る見るうちに痩せていった。
口からものは食べられず、2か月で20キロ減。
どうしても一度家に帰りたいと戻ってきた父は本当にちっちゃかった。
そしてあの朝、学校に行くのをためらっていた私に彼は声を振り絞って言った。
「安子、行っておいで」

それが私が聞いた父からの最後の言葉となった。
そして3日後、彼は逝った。
60歳。

その当時、お葬式は家でするのが当たり前だった。
いつも暮らしている家があっという間に斎場となり、たくさんの人の出入りがあり、お線香の匂いが漂う中、おそらく母はあまり眠れていなかったのではないかと思う。
あまりにも突然のことで、しかも先がみえない状況だったから。
全てのことが終わってようやく日常が戻ってきたその晩に母がポツリと呟いた。
「20万しかない」

それまで毎月父から渡されたお金で暮らしていた母である。
私から見ても少しはゆとりある生活費で過ごしていたと思われる。
それが今月から1銭も入ってこなくなるのだ。
私は中学3年生、受験期、お金はどうする?
それでもどこか期待していたのではないかと推測する。
何せ会社の役員までやっていた父だったのだから。
しかしながらその期待は見事に裏切られ、銀行通帳も、生命保険も、もちろん現金もどこからもでてこなかったらしい。

それがわかった時の母。
私はあんなに憔悴しきった母の後ろ姿をみたことはなかった。

思うに、やりくり上手とは『あるものでなんとかする力』のことをいうのではないだろうか。
もしそうであるならあの時から母はその力を存分に発揮しはじめた。
そう、泣いてばかりはいられなかったのである。
そして彼女は決めたはず。
娘の将来は私が働いてなんとかすると。
次の月から母はパート先の老舗料亭の女将の紹介をもらって朝から晩まで働きはじめた。

父の死から5年経った頃、母が私に話してくれたことがある。
大学2年20歳位のころだったろうか。
「本当はママ、赤坂で小料理屋を始める予定だったのよ。」
「えっ?」
私にとっては初耳だった。
考えてみればそのプランはタイミング的にはとってもいい時期だったようだ。
父60歳、母42歳、私は高校1年になるその年。
そうか、二人にとっての第2の人生計画はしっかりあったのだ。
そう考えると色々蘇ってくる。
私が中学に入った頃、母が調理師学校へ通い始めたこと。
そして時々食卓に今まで見たことのない料理も並ぶようになったこと。
寝る前にはシェーカーをシャカシャカふりカクテルづくりの練習をしていたこと。
そうか、あれはお店を出すという夢があったからなんだなぁ。。
だから赤坂の老舗料亭にパートに通いだしたりもして。

おかれた現実でやりくりをすること。
振り返れば私は一番身近な母からその術を学んだのかもしれない。
与えられた時間でやりくりすること。
あれもこれもできない時は捨てる勇気も必要であるということ。
自分が食べる分くらいは自分で稼いでやりくりすること。

そして・・今改めて思うのは、
母の一番のやりくり上手といえば、
『心の状態』をどうやりくりするかだったのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?