見出し画像

青い瞳

そのお産はかなりの難産だったようだ。
「このままだと母体も胎児も危険です。」
私は、急遽鉗子分娩 (=鉗子(かんし)で胎児の頭を挟み引っ張って分娩させること)に切り替えられ、どうにか光の世界にたどり着けた。
一か八かだったんだろうなぁ。
父は万が一の場合もあると医者に言われ、同意書にサインをしたとも聞いている。その時、父はどんな気持ちでペンをとったのだろうか。

とにもかくにも母も子もその後の人生を歩むことができた。
ありがたいことだ。

ただ、今振り返ればなぁんだそうだったのかと思えることも、
その時はさぞ心配だったろうなということはある。

その1、母の身体。
そうとうダメージが大きかったようで1年間は入退院生活を余儀なくされたとか。そして退院後2年間は自宅療養。その間どうやら私には乳母がいたらしい。のちに私が高校2年の時に私の目の前に現れて、
「安子ちゃ-んこんなに大きくなって」と泣かれたこともあった。

その2、私の右目。
産まれた時の私の右の目の瞳は青かったようである。

ただ眼球は左右同じく動いたので、医者の見解でしばらくは様子を見ることになったと聞く。
そして半年後、青い瞳は、黒く、なった。

この右目のこと。
今ならどんな状況なのか把握できる手段は色々あるのだろうが、当時はどうだったのか。
特に視力に関しては何歳位から測ることができるのだろうか。

当時の記憶でこんなことがある。
それは小学校にあがる時の視力検査でのこと。
私は実はすでに右目は見えなかったのだが、みんなと違うのがイヤでチョンボして答えたのである。当時の視力検査は自分の手で反対側の目を隠すというやり方。ちょっと指間に隙間を作れば簡単に左目でみることができてしまった。
「はい、ではこれは?」 
「右」
「じゃあ次のこれは?」
「上」
なんといっても左目は1.5。
なんなくクリアである。

ただ学校の視力検査はパスできたものの親は私の右目が見えていないことに気づいていたらしく、何とかしなくてはと奔走していた。
特に父の動きはすさまじかったとあとから聞いたことがある。
インターネットの無い時代にどうやって情報収集をしたのだろうか。

私が小学生3年生の頃だったと思う。
ある日父は私に言った。
「安子、右目は手術をすればもしかしたら見えるようになるかもしれない。ただし成功率は50%失敗すれば眼球は動かなくなる可能性もある。そして手術はアメリカでやることになる。だから学校は1学年遅れることになるがどうしたいか?」
私は2つ返事で答えた。
「やらない。このままでいい。」


私のこの右目は今でもほとんど光と色しか感じられないのだが、ここまで人生が進んでくると、あの時の選択でよかったんだなと思うことも多々ある。
ただ・・・確かに制限や結構な痛みをともなう事実があったことは否めない。

例えば
制限と言えば・・いくつかの職業は選択できず。
何故なら応募条件に視力0.1以上があったからだ。矯正可となっていても矯正はできないので諦めるしかない。
あとは3D映画を3Dとして感じられることが少ない。
調子がいいと感覚をキャッチできるのだが、それはかなり稀のこと。

また痛みを伴うことといえば結構な回数、転んだり、落っこちたりしたかと思う。
3歳では転んで角材から出ていたクギに顎を打ち付け何針か縫ったとか、
20歳の時、階段の最上段から一番下まで吹っ飛んだ話とか。
はたまた40代になってからもバスのステップを踏み外して縁石までスライディングしてストップ。左半分、顔がしばらくの間お岩さん状態になった話とか。
まぁ色々でてくるはででくるは(笑)
もちろんすべてが目のせいではないかもしれないが、なるほどそうかもね、と後から思えることはたくさんある。

そして、
今となってみればそれらの経験こそが、
もしかしたら私が手に入れることができた財産なのかもしれない。

「経験に損得なし」

あるものを使えば道は開ける!


************
良かったら、いいねボタンやポチッと💗をいただけたらとても嬉しいです。一言コメントも励みになります。よろしくお願いします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?