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第二章:たよりと一太郎
真夏の日差しが地面をてらてらとまばゆいばかりに照らしている。
じゃりじゃりと土を踏む音が聞こえたので顔をあげてみると、次郎がそこに立っていた。
「お客さん?」
美映は次郎を見上げる。
町の一角にあって、この界隈には独特の匂いが満ちている。
「ああ、一人だ」
男と女の、まぐわいの香りが――。
次郎の背後から、一人の男が現れた。
年の頃は四十。
「いらっしゃい。私は美映。よろしくね」
美映はそう言うと、床にしいたむしろの上で、衣の裾を少しだけ持ち上げ、ももを見せた。
男は鼻の下を伸ばし、次郎に金を手渡す。
「半時だ」
次郎は短く男に告げると、さっさとあばら屋を出て行った。
ろくに屋根板のやぶれも修理していないこの廃屋は、長い間、美映とその息子一太郎のすみかである。
美映が男とまぐわいを始めるや、その声は隣近所につつぬけとなる。
この近辺では同じような家ばかりが軒を連ねているから、昼間から独特な雰囲気が漂う、ある意味とてもにぎやかな一帯であった。
美映の息子、一太郎は、ここいらのそんな風情が、幼いころから嫌いであった。
一太郎の父は、どこの誰だか分からない。
母が身を売りはじめてから、たまたま当たったのか、もしくははずれを引いた男がいたのだろう。
一太郎が尋ねても、母親の美映自身も父は誰だか分からないという。
いくらせがんだところで、客の誰かだろうね、と言うばかりである。
一方で母の従兄弟である次郎は、一太郎が幼いころからそばにいた。
次郎は、つかず離れず、母の商いに携わっている。
母と次郎は仲がいいのか悪いのか、幼いころよりその関係を見知っている次郎にしてもよく分からない。
仕事以外の話はめったにせず、母がそんなものだから、次郎もなんとなく距離をとっている。
そんな次郎が父親代わりなどであるはずもなく、見ればいつも焼き鳥をくわえている次郎を、一太郎はいけすかない野郎だと思っていた。
「ああん」
母・美映の喘ぎ声が、いっそう大きくなってゆく。
軒先に並んだ一太郎と次郎は、それを聞くともなく聞いている。
いつもは口を開かない次郎だったが、今日は何がそう差し向けたのか、次郎は一太郎をつかまえてこんなことを言った。
「よう、お前もどこかの女子を連れてくるんだな。そうすりゃお前も死ぬまで食っていける」
一太郎の顔にさっと赤みがさした。
何を、この野郎。
一太郎は、もう少し体が大きければ、次郎の胸ぐらをつかみ張り倒しているところであった。
しかし今年十三になる一太郎の体格は、次郎のそれに遠く及ばない。
「ほっとけよな」
一太郎はそう言い捨て、その場を後にした。
背中で聞く母・美映の喘ぎ声が一気に小さくなっていった。
その頃、たよりは西念寺で『平家物語』を聞いていた。
幾度となく聞いて飽き飽きしている安仁の『平家物語』。
それをたよりはお堂の一番後ろ、観音開きの入り口側にある縁側に外向きに座って、足をぶらぶらさせながら背中で聞いている。
もうすぐ、安仁が一等大きな声を出すところだ。
物語の中では、確かナントカ天皇という幼い天皇が海に沈んでゆくところ。
嘘か本当か分からない、そんな『平家物語』という物語を、今や日本中の人たちが聞いているという。
「あーあ、私の話も、誰か聞いてくれないかしら」
たよりがそう、ひとりつぶやいた時であった。
「なんだ、話し相手が必要なのか?」
と、足元で声がした。
見ると、先日顔を見かけた少年が立っていた。
年の頃は十を過ぎたあたりか。
「へぇ。あんた、私の話し相手になってくれるんだ。名前は何ていうの?」
お得意の早口言葉のような口調で、たよりはまくしたてる。
少々その勢いに押されたのか、少年は一拍たじろいでから、言葉をつむいだ。
「俺は一太郎という。美映の子、一太郎と言えば分かるか」
み、ばえ…?
たよりは頭の中で見知った村人の顔を並べる。
やがて、ぽんと合致する顔が現れた。
「ああ!あの!」
卑しい身分という噂である、あの美映の!とは、さすがのたよりでも言わなかった。
しかしそれは言外に現れていたようで、一太郎はため息交じりに「そう、あの美映の息子だよ」とぼやいた。
「あんた、暇なの?私はかなり暇してる。今、お寺のお堂で安仁坊が『平家物語』を吟じてるでしょ。一緒に聞いてく?いやいや、聞くわけないよね。つまんないもんね、あんたぐらいの年の子が聞いても。いや、私にとってもつまんないんだけどさ。村の大人たちはみんなありがたがって聞きに来てるのよね。見てよ、畑仕事の手を休めて、村の人たちほぼ全員。何がそんなにいいんだか。若い私にはまったく分からないわ」
そう一気にまくしたてると、たよりは「困ったものよね」と付け加えた。
「あの、あなたの名前は何ていうの」
一太郎は、ぽつりと、そう尋ねた。
たよりは目をぱちくりさせて、その後、間を置いてあはははと大きな声で笑いだした。
「ああ、ごめんごめん、まだ名乗ってなかったか。私はたより。この西念寺おかかえの民よ。今年十六。いつもは畑仕事を手伝ってるんだけど、最近は寺の手伝いをいいつかって朝からお寺に通っているの。安仁さんが京の都から呼ばれてこの寺にいついてから、私や同じような年かさの子供が身のまわりのお世話をしているの。あ、安仁さんっていうのは、もう知ってるかしら。今聞こえている『平家物語』を吟じている、あのお坊さんのことよ。生まれつき目が見えないのですって。かわいそうよね。私、そんな境遇に生まれついたら世をはかなんで死んでしまうわ。それでも安仁さんは琵琶を片手に全国をまわっているの。すごいわよね。今では西念寺で朝昼晩の三回、『平家物語』を演じているのよ。一太郎は、今回が初めてじゃないわよね。このあいだお母さまと来ていたわよね」
たよりは、またもや早口でまくしたてた。
一太郎は、ゆっくりと何度もうなずきながら、たよりの言葉を咀嚼する。
そうして、たよりがしゃべり終わるのを待ってから、やはりゆっくりと口を開いた。
「うん、こないだ、母と来てた。母は『平家物語』が大好きなんだ。それはそうと、たよりさんは俺より年上なんだな。俺は今年で十三だ。よろしく」
それを聞いて、たよりはふふ、と笑って返した。
「たよりでいいよ。うん、よろしく」
なんだ、いい子じゃない。
村の大人たちは、母親の美映ともども卑しい身分の者だからつきあうなって言うけれど、普通の子じゃない。
それに、たとえ母親の美映が卑しくったって、子供の一太郎までそうとは限らないのは当然よね。
話してみた感じ、とっても普通の子だわ。
それが、この時たよりが抱いた一太郎の感想であった。
ひとしきりたよりと語らい、一太郎はすっかり上機嫌となり家路についた。
家に帰ると母はぐったりとしており、男とのまぐあいの後いつもそうであるように、体のところどころに青黒いあざをつけていた。
「ただいま」
一太郎がそう投げかけると、母は「うん」と小さく返事をした。
そこへ、次郎が帰ってきた。
手には焼き鳥を握っている。
日はもう西に傾きかけていた。
次郎は、家のしきいをまたぎ一太郎を見つけるや、右の口角をぐいとあげて口を開いた。
「やぁやぁ、これはこれは。お前もやるじゃないの、昼間から寺で女子をたらしこむとは」
一太郎は瞬時、頭をめぐらせた。
次郎が言っているのは、他でもないたよりのことだ。
一太郎とたよりが長い間語らっている間にそばを通った村人はかなりの数いた。
そのうちの誰かが次郎に告げ口をしたのだろうことは明らかだった。
「おしゃべりなたよりに目をつけるとは、お前も酔狂だな。しかしこれで美映の後釜が決まったなぁ」
そう言うと次郎は、はっはと笑い持っていた焼き鳥に喰らいついた。
「そんなのじゃない!」
一太郎はなかば叫びながら次郎を見返した。
「おうおう、威勢がいいなぁ。だが、ガキは黙ってな」
次郎はそうぶっきらぼうに言い捨てると、片足で小石を蹴るように次郎の膝を蹴って去っていった。
後に残され立ち尽くす一太郎の横を、「さあさ、夕飯の支度をしようね」と言いながら母が通り過ぎていった。