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第三章:伊勢の組木細工
西の方で時の天皇が始めたという戦が終わりをむかえたらしい。
早馬の伝令は、伊勢の領主に、そう伝えた。
この頃の伝令はみな馬か徒歩である。
戦が終わりをむかえたことも、皆人づてに聞いて知るのである。
夏、空は高く、伊勢の地では今日も民百姓が額に汗して働いている。
自室から外を眺めていた火花は、きしむ老体にかつを入れて、ぬっとその場に立ちあがった。
「皆を呼べ」
「皆」といのは、息子たち以下、一族郎党のことである。
四半時後、呼び集められた彼らは、屋敷の一等大きな部屋にずらりと並んだ。
「西の戦が終わったらしい」
火花は、先ほど伝令から伝えられた件を、皆に伝えた。
「戦に出向いていた男衆が戦場から帰ってくるぞ」
場内がどよめく。
「ひいては、今後の我らの働きについて、皆に伝えておこうと思う」
一転、場はしんと静まり返る。
「このところ、私の代ではじめた伊勢の組木細工の評判がよいらしい。各地に向かわせた商人からよい知らせを聞く」
火花は、ゆっくりと間を置いて次の句を継ぐ。
「これからは商いの時代となる。今後は伊勢の組木細工を全国に知らしめ、行きわたらせ、各地で大儲けをしてこの地を更に栄えさせるのじゃ」
それから、火花は長い間を置いた。
「これを機に、私は引退する」
この火花の最期の言葉を受けて、長男、次男、三男と、男衆が次々に口を開いた。
「静かに」
火花は彼らを一言のもとに制する。
「もう決めたことだ。この年まで現役を続けていたことのほうが異常なのじゃ。もうよい。後はまかせた」
それだけ告げると、火花は手を引かれながらその場を退席した。
常陸国、西念寺のおひざ元の村々に、男衆が帰ってきた。
ある者は手柄を、ある者は手痛い傷を負って。
そんな中、娑婆に戻ってきたからには女を抱きたいという男が大半である。
彼らは、妻のある者は妻を抱き、独り身の者は商売女をむさぼるように抱いた。
商売女の一人である美映にあっては、商売をはじめて以来の大盛況となった。
そんなわけで、あばら屋の中では、朝から美映が客をとっていた。
「いいねぇ、商売繁盛!」
そう言いながらいつものように家の表で焼き鳥を頬張る次郎である。
「あああん」
美映の喘ぎ声が響く。
「母ちゃんが頑張ってるんだ。お前も何か頑張れよ」
次郎は焼き鳥の串を指先でもてあそびながら、傍らにうずくまっている一太郎に話題をふる。
「うるさいな」
「ああん」
次郎をにらむ一太郎であったが、勿論、母の声は途切れることがない。
一太郎はたまらずその場を後にした。
行く当てはなく、ただ、その場にいたくなかった。
一太郎は市場へと足を向けた。
市場はいい。
常に誰かがいて、にぎわっていて、あちこちで楽しそうな声が聞こえる。
店とはいっても、地面にござを引いて棒を立てた上に大きな布を張っただけのものから、きちんとした小屋のような店まで、界隈によって表情を変える市は、見た目にも楽しい。
一太郎はなんとはなくぶらりぶらりと歩いて人の流れに身を任せていた。
すると、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
「たより」
驚かさぬように、一太郎はたよりの斜め後ろからそっと声をかけた。
「わっ!一太郎じゃない!びっくりした!何してるのこんなところで」
声をかけられたたよりは、はじかれたように一太郎に向き直る。
「なんとなくぶらぶらしてるだけ。たよりは?」
「なるほどね。私も同じかな。ねぇみて。この伊勢の組木細工、すごいのよ」
たよりはそう言うと、店の主にことわりをいれて組木細工の説明をはじめた。
よほどそれが気に入っているのであろう、たよりの弁舌は止まることがない。
「たよりは、それが欲しいのか」
一太郎がたよりに尋ねる。
「私のような者に買えっこないでしょ。見てるだけ」
それまでまくしたてるように組木細工について語っていたたよりの勢いはどこへやら、急にへそを曲げてしまったのか、しゅんと口をつぐんでしまった。
その様子を見やり、一太郎はふうんと得心した。
夕方、家に帰ってきても、まだ美映は男とまぐわっていた。
「よっおかえり」
いつもと変わらぬ、飄々とした次郎の様子が腹立たしい。
一太郎は、母の仕事が終わるまで、じっとその時を待った。
果たして、相手の男が帰っていき、家屋の内から母が出てきた。
いつもの倍以上の男を一日で相手にしているものだから、体中あざだらけである。
その姿を見ると、一太郎は一瞬目を伏せざるを得ない。
夕飯をたいらげ、一息ついた頃合いを見計らって、一太郎は母に言った。
「俺も仕事を手伝う。だから給金をくれ」
母の美映はそれを聞くや、目をまんまるにして、怒りを交えてこう返した。
「馬鹿なことをお言いでないよ。お前は十六になったらどこかいいところで雇ってもらって、末は大商人になって大儲けするんだから。今から変な仕事を覚えるとろくなことにならない」
「そんな」
一太郎は口をとがらせる。
美映は、あざだらけの体をさすりながら、いつしか、肩で咳をするようになっている。
「いいじゃねぇか、商売を手伝わせてやれよ」
二人のやりとりを聞いていた次郎が、焼き鳥の串をもてあそびながら言う。
「無責任なこと言わないで!」
母の美映が次郎に声を荒げるのを聞いたのは、後にも先にもこの時一回こっきりであったと、一太郎は後になって思い返すのであった。
次の日、一太郎は朝から晩まで市場をうろついていた。
そうして、その翌日。
西念寺のお堂の縁側で床の水拭きを手伝っていたたよりに、一太郎は駆け寄り声をかけた。
「なぁ、たより、これ、なんだと思う?」
一太郎は満面の笑みである。
「え?なぁに?」
雑巾を脇によけながら、たよりは仕方がないわねというふうに、一太郎に向き直る。
見ると、一太郎の手には、布にくるまれた何かが握られている。
「何それ。大事なものみたいだけれど。もったいぶらずに教えてよ」
たよりは興味深々である。
「驚くなよ」
一太郎はにやっと笑って布をとりはらった。
するとそこには、先日たよりが市場で説明していた、まさにその伊勢の組木細工があった。
「どうしたの、これ」
たよりは目を真ん丸にして一太郎に尋ねた。
「これ、たよりにやるよ」
「えっ」
たよりが一太郎を見返す。
一太郎はなおも笑みを崩さない。
しばしの沈黙が二人の上におりた。
たよりの口が、小さく開いた。
「もらえない」
たよりの両目はしっかと一太郎をとらえている。
「えっ」
間を置いて、一太郎の顔が崩れた。
「ごめん、もらえない」
たよりは重ねて言う。
どれほどそうしていたろうか、たよりが面を再びあげた頃には、一太郎は既にその場にはおらず、午後の部を前にしてお堂の中からは安仁坊の琵琶の音が聞こえているのであった。
一太郎が役人にしょっぴかれたという知らせが届いたのは、その次の日になってからのことであった。