愛したい人と、愛されたい人
いきなりなんなんだ、というような題名ですが、最近読んでいた本のテーマがこれだったので、思うことを書いてみようと思う。
頭では、この人といたら自分は幸せにはなれない。なぜなら、私が注いだ愛と同じ熱量を持って返してくれない。私は彼の方を向いているのに、彼は背を向けているから。
みたいな話を人から相談を受けたりしたこともある。
「頭では分かっている」
これが曲者なのだ。なぜなら、思考と感情が一致していないから。「頭では分かっているのに、そっちを選んでしまう」感情とは、潜在意識とも言えると思う。思考は、顕在意識。
脳は、潜在意識の方を叶えようとする性質がある。
そうすると、顕在意識と潜在意識で綱引き状態になってしまう。これが、葛藤の状態で、時に胸を掻きむしるほど苦しくなったりもするのだ。
ところで、周りの人がどんなに止めようとも、「やめておいた方がいい恋愛」へ突っ込んでいく人はいないだろうか。
彼/彼女らは、相談する風を装って、実は、自分の中で答えが決まっているのだと思う。
なぜなら、誰が何を言おうとも、「自分の出した答えを肯定してほしい」としか思えない行動をとるからだ。
「だってえ〜、こんないいところもあるの」
「根はいい人なの」
「そうは見えないもの」
どんな地に足のついた冷静なアドバイスをしようとも、返ってくる言葉は、擁護するような言葉ばかり。
こういう場合は何を言っても、すでに自分の中では答えが出ているので、こちらが話を聞いても骨折り損といったところだ。
だけど、信念を持ち、リスクや自分が傷つく覚悟を持って、それを選ぶ人は強いと思う。
「私がどんなに彼を愛しても、同じくらいどころか、これっぽっちも返ってこないのはわかっている。でも、それらを全て承知の上で、自分の愛する人を愛したいの」
といった具合。これには、唸ってしまう。
なんというか、腹が据わっていて、自分の中で何を大切にしたいかが自分でわかっているからだ。
結末がどんなものになろうとも、決して人のせいにはしないだろうし、自分の信念を通して静かに受け入れるから。
反対に、周りの人のアドバイスや忠告は全く聞かず、己の欲求のまま突き進んで、事故を起こし、他人のせいにして悲劇のヒロインを演じる人もいるだろう。
最初から話がずれまくってしまったが、愛したい人と愛されたい人がいると思う。
愛したい人とは、能動的で見返りがなくとも、自分の意志で相手を愛すという選択をしている。
愛されたい人は、受動的で、主導権を相手に渡している。
一見すると、愛したい人の方がGiverで与えている感じがして、愛されたい人はTakerで欠乏感を他人で埋めようとするような感じがする。
だけど、これは落とし穴だと思う。
なぜなら、愛したい人は、相手に自分を投影して根本に自己愛からそうしているかもしれないからだ。
相手を愛している、という風に見せて、実は自己愛を満たしたい可能性も大いにある。
だから、「こんなに愛しているのに!」と言う人には、もしくは自分が思ってしまうならば、それは何を満たしたいのか、その愛の対象が何なのかを立ち返る必要がある。
理想は、愛したいと愛されたいのバランスがうまく取れていることだ。
人は、愛し愛されるために、ひいては、愛とは何かを自分なりに体験して知り、定義づけていくために生まれてきたのではないかと思う。
そして、そこに絶対的な答えはない。答えは無限に、存在する人間の数だけあると思う。
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