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【ネタバレあり】『キャプテン・マーベル』:オジ&デス対談第3弾 Vol.4

《進化し続けるヒーロー映画とヒーロー像》

ヒーロー映画も時代に合わせて進化を続けていることは言うまでもないことだが、それゆえにヒーロー映画を鑑賞する際にもちょっとしたことがノイズとなることも…。今回はその点を(例によって勝手に)掘り下げて、ついでに音楽の話をしています。進化するヒーロー像とその活躍を彩るのに相応しい楽曲のチョイス。やはり完璧と言わざるをえない!

敢えての批判的考察

オジサン さてと、語りだすと「ここが好き」「ここが最高!」語りになっちゃう映画ですけど、この辺で少し『キャプテン・マーベル』に関する大絶賛以外の反応についてもちょっと考えてみたいんですけど。

デス いいですよ。

オジサン あのですね、金田淳子さんがネット連載(「フェミニスト両手ぶらり旅」)で『キャプテン・マーベル』を見てきた感想として物足りなかった点として2つの点を上げているんですよね。まず、アメリカ空軍を肯定的に、憧れの対象をして描いてしまうことはどうなのか、という点。それから、スクラルという難民を地球で受け入れるのではなくて、彼らに新しい住み処(惑星)を探すという結論はそれでいいのか、という点ですね。
 で、ボクの考えを述べるとですね、最初の論点ですけど、空軍はポジティブに描かれていたかというと、実はそうでもないっていうことが言えると思います。

デス たまたま空軍に所属していたキャロル・ダンヴァースとマリア・ランボーというふたりを肯定的に描いているっていうだけで…。

オジサン そうですよね。しかも、当時は「女は戦闘機に乗れない時代」でテストパイロットにしかなれなかった、っていう空軍における女性差別にも言及しているし、決して全面的に好意的な描き方じゃないんですよね。ただ、モニカがアメリカ空軍のTシャツを着ていたり、母親のマリアもパイロットだし「空軍カッコいい」って憧れの対象になっている部分はあると思いますけど。

デス うん、まぁ、MCU(Marvel Cinematic Universの略。マーベル・コミックスの映画化作品郡がクロスオーバーしながら作り出している世界線)全体で見てみれば、『キャプテン・アメリカ』でも国家とか軍隊とか諜報機関みたいなものを相対化するように描いているからさ。それにモニカが空軍のTシャツきてるのはさ、お父さんが消防士だから自分も消防士に憧れるとか親が警官だから警官に憧れるというレベルのことだからね。軍隊の存在自体が悪なのかについては、左翼とかリベラルの間で議論はあるけれど、一応現時点では軍隊は最低限必要だということになっているわけよね、警察力と同じで。他国にやたら戦争しかけるとかなると話は別だけどさ。『キャプテン・マーベル』の場合、物語上必要だから空軍って要素を登場させただけであって…

オジサン まぁパイロットじゃないとどうにもなりませんからねぇ。

デス そうそう。

オジサン 宇宙行ったりとか…

デス 旅客機のパイロットってわけにはいかないしね。

オジサン 戦闘機じゃないとダメなんですよね、闘う必要があるから。

デス あとね、他の国のひとはどうかわからないんだけど、オレの個人的見解を言うとね、日本のリベラルのひとたちはアメリカの軍隊にすごく複雑な感情を抱いている。っていうのはやっぱりベトナム戦争やイラク戦争などの国際的な諸問題に加え、自国内に米軍基地問題があるから。だから、どうしても、アメリカの軍隊が批判的ではない文脈で出てくると多少モヤっちゃうっていうのはね、理解できる。日本はかつてアメリカと戦争した経験があって、で、今ではアメリカの属国みたいなとこがあるわけじゃんね。そういう国に住んでて、かつ米軍基地問題とかを意識しているひとが何も感じないってのも、それはそれでどうかと思うし、だから金田さんが引っ掛かりを覚えるのは、その感覚自体はとても真っ当。

オジサン まぁそうですよね。で、ふたつめの話ですけど、スクラルを地球で受け入れないことに関して…。

デス んー、あれはね…、金田さんはMCU作品を見るのが初めてと言っているから(※ご本人も「だから、私の知らない作品で描かれていることがあるのかもしれない」という前提で映画の感想を書いている)、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(以下GotG)とか『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』を見ればわかるんだけど、スクラルを追ってきてるロナン・ジ・アキューザーは、GotGではサノス(MCU全体のラスボス)と手を組んでるわけじゃん。そういう奴だし、簡単に地球なんか滅ぼすだけの力がある。だから、ロナンを中心としたクリーのタカ派みたいな連中に目をつけられているスクラルが地球にいるってことになると、地球は科学力でも軍事力でもスクラルにもクリーにも劣っている惑星という設定だから、とても勝ち目がない。しかも、今回の戦いによって、地球はクリーから目をつけられちゃってるわけだよね。だから、スクラルが地球にい続けることが、彼ら自身にとっても地球にとっても危険だと、皆の平和のために安住の地を他に探した方が良いという判断だよね。

オジサン どこにいても追いかけてきて抹殺しようとするから、クリーが来られないようなずっと遠いところに移住することが、平和に暮らす唯一の道だとスクラルのひとたちは考えてるわけですよね。

デス まぁ、いずれにしても戦争を仕掛けてくるクリーが悪いんだけど。

オジサン あと、モニカは「うちに住むんじゃダメなの?」って言うじゃないですか。

デス うん。やっぱり、モニカがああいう台詞を言うのは重要だと思う。わざわざこれから宇宙をさまよって、住めるか住めないかわからない惑星を当てどもなく探すよりも、本来なら受け入れる姿勢を示すことが正しいんだよってことも描いているよね。その上で、あの世界ではそれは不可能だから遠い宇宙へ旅立って行くし、地球人のキャロルがそれを手助けするわけだよね。

オジサン そうですね。

デス あとね、キャプテン・マーベルって、最後にスクラルと共に新天地を求めて旅立つところまで含めて、これまでのMCU作品において、ヒーローたちが各々直面してきた試練の数々に、一作品内でほぼひとりで立ち向かってるんだよね。そして、過去の男性ヒーローたちが克服してきた試練に加えて、キャロルは女性差別も受けている。そういう視点で見てみると、キャプテン・マーベルが過去の色んなヒーロー像の上に出来たハイブリッド・ヒーローで、かつあらゆる類型化を拒むキャラなのは必然なんだよね。

オジサン なるほど。でも、そうなると、女性ヒーローばっかり荷が重くないですか?頑張って何度でも立ち上がってヒーローになりました、でもいいですけど、ただでも差別されてるのに、そんなに頑張らないといけないのかよっていうか…。女は男の三倍努力してやっと男と対等、みたいな…。

デス うーん、前にも言ったように、『キャプテン・マーベル』って、特殊な環境とか特殊な血筋じゃなくてもヒーローになれるってことを描いていると同時に、キャロルが女性差別を受けていたように、なんらかの差別を受けているひとたちが、抑圧のせいで、思うように能力を発揮できなかったりとか、そういうことがあっても、あなたのせいじゃないよ、と言っているようにもとれるよね。ヨン・ロッグなんかはすぐにキャロルにあれが足りないこれができてないとか、ごちゃごちゃとキャロル自身の努力や心構えがなってないって言ってくるんだけど、キャロルは全然何も悪くないわけだよ。だから、なんていうんだろ、努力して報われるサクセスストーリーとして観客をエンパワメントする力もあるんだけど、同時に、努力する機会を奪われたひとのこともエンパワメントするような作品になっていると思うな。

オジサン 確かにそうですね。

デス うん、それに、キャロルって努力家だけど真面目一辺倒ではないんだよね。例えばさ、キャロルとマリアが飛行場まで車で競争したっていうエピソードで、キャロルがズルをして勝ったって話が出てくるけど…。映画全体見ててもドアをフォトンブラストで壊すし…

オジサン バイクは盗むし…

デス 服も盗むし…

オジサン ジュークボックス破壊するし…

デス そうそうそう。公衆電話勝手に無線にするし…

オジサン 電車ぶっ壊すし…

デス なんていうか、いわゆる品行方正ではないわけだよ。明らかに意図的にそういうひとに描いていると思う。だから、努力とか正義を成すことを称揚する一方で、人間ダメなところがあってもいいし、そんなあなたがうまくいかないことがあったとして、それはあなたのせいじゃないかもよ、みたいなさ。

オジサン 考えてみたら、飛行機も盗んでるんですよね。ちょっとだいぶ盗み過ぎですけどね。

デス あなたを抑圧している、あなたの能力を押さえ込んでいる敵がいるのかもしれないっていうね。なんていうか、マイノリティが陥りがちな、自分に対する懲罰的な感情と言うか、そんな感情を抱かなくていいんだよ、本当に懲罰をうけるべきやつは他にいるっていうことを、暗に示すようなストーリーになってると思う。あとね、キャロルは誰かに強要されたわけではなくて、自分が立ち上がりたいから立ち上がってきたわけだよね。ほら、あの映画って、キャロル側の人達が説教するシーンってないよね。優しくアドバイスしたりとか諭したりという場面はないわけじゃないけれど、厳しく説教臭いことをお互いに言ったりしないんだよね。「努力が足りない」とかさ。キャロルは、強くてカッコいいヒーローへと覚醒していく努力家でもあるけれども、それが絶対視されているのではなくて、数ある生き方の一つとして提示されているよね。

価値観の押し付けでダイバシティは実現できない

デス 『キャプテン・マーベル』では、今言ったような、類型化されない女性ヒーロー像みたいなものが、音楽面にもよく現われていると思う。映画の舞台が95年だから、90年代のロックやヒップホップが使われているんだけど、Hole, TLC, Garbage, No Doubt, Elasticaといった女性(グループ)の曲の他、Nirvana, R.E.M.なんかも使われてる。事実上の主題歌みたいなかんじでエンドクレジットで使われてるのがHoleの“Celebrity Skin“だけど、ヴォーカルのコートニー・ラヴはストリッパーなどやってたひとだから、そういった経験を生かしてか、衣装も下着みたいなかんじで、あえて性的な意匠を選んで武器にするタイプのアーティストで、キャプテン・マーベルとは一見それほど被らないように見える。もうちょっとストイックでクールな…パティ・スミスとかもってくれば「いかにも」という感じになると思うけれど、そこで敢えてHoleを選んでいるのはさ、特定の女性ヒーロー像、特定の女性像、特定のフェミニスト像、特定のガールズパワー論みたいなものに偏ることなく、世界中のありとあらゆる女性をエンパワメントする映画であるべきという決意表明のように見える。

オジサン Twitterで音楽評論家らしきひとが「適当にグランジ/オルタナかけとけばいいだろって感じ」「90年代の文化への理解が足りない」みたいな批判をしてましたけど、そもそもグランジ/オルタナがメインかというとそうでもないですよね。むしろその評論家の方こそ「どうせ適当にかけてるだけ」という先入観に邪魔されて音楽と物語の関係を見落としているように感じましたね。

デス そう。むしろ明確にグランジ/オルタナに分類されるのってHoleとNirvanaくらいでしょ。あとね、90年代にはグランジ/オルタナの文脈のジャンルで、Riot Grrrl(※綴りにひねりが加えられているが、読み方はRiot Girlと同様)っていうムーブメントがあって、代表的なのがHole、イギリスのPJハーヴェイとか、あとビキニ・キル、L7とかってバンドかな。パンキッシュでノイジーなサウンドで、攻撃的な音楽を奏でる、ある種のフェミニズム的ロックだったんだけど、そこまで爆発的な売り上げを記録したわけではないし、あまり大きなムーブメントにはならなかったんだけど、『キャプテン・マーベル』の中でPJハーヴェイのポスターが貼ってあったり、主題歌的にHoleが使われたり、明らかにそういったRiot Grrrl的なものを意識はしていると思う(※当時、米国でRiot Grrrl系のバンドのライブ会場がミソジニスト集団の襲撃に遭った例もある)。でも、それだけにフォーカスするのではなくて、もっとメインストリームなNo DoubtやR&Bやヒップホップ系のDes’reeやTLCの曲もうまく使っていて、特定の価値観に寄ってないのがいい。ほら、世の中さ、多様性とかいう名のもとに実は単一的な価値観を押し付けてくるみたいなことがあるわけだよね。

オジサン ありますね。

デス 例えばロックひとつとっても、ロックってのがもともとクロスオーバー的な、雑種な音楽なわけじゃん。で、「ロックは最も多様な音楽で素晴らしい」とかいいながら、偏狭な「ロック的価値観」を押し付けてくるウザいオヤジがいるじゃん。ツェッペリンこそがどーのこーのとかさ。「マイルス・デイヴィスはロックだ」とかさ。

オジサン そうですね、「○○こそが至高」みたいなこと言ってくるタコでしょ?

デス そうそう、ツェッペリンとかビートルズとかストーンズっていう雑多な幅広い音楽をやってきたアーティストを崇めつつ、「これこそが至高である」「これらのバントが作り上げたこのジャンルこそが至高である」っていう単一的な価値観を押し付けてくるわけよね。口では多様性を謳っているんだけど、やってることは単一的な価値観の押し付けなわけだよ。そういうものに『キャプテン・マーベル』はなってない。今言ったような、音楽クソオヤジ的なものっていうのは、クソオヤジに限らずオレも含め、しばしば誰しもが陥りがちな罠で、自分が好きなものが多様性を体現したものだから、自分は多様なものを提唱しているような気になっちゃって、その実、無自覚に単一的な価値観を押し付けてしまってるひとっていうのは案外多いよね。

オジサン 今の喩えはわかりやすかったですね。ビートルズにしてもストーンズにしても、色んな音楽の影響を受けてああいうサウンドになってる。ツェッペリンにしても、色んなところから借りてきたものが入って、ああいう音楽になったのに、「ハードロックやメタルはツェッペリンがいればあとは要らない」みたなことを言い出すジジイとかいるじゃないですか。いや、お前の脳みそこそ要らないんだよ、みたいなかんじで…

デス そう。だってさ、ヒーロー映画だって、78年の『スーパーマン』とティム・バートンの『バットマン』とサム・ライミの『スパイダーマン』、これだけあれば充分だ、これこそが至高だ、これ以上こういうことはできないんだ、とか言って努力を放棄していたら『キャプテン・マーベル』とか今ごろ生まれてないわけだよね。

オジサン そうですよね。「これこそが至高だ」っていうのは、まぁ、思うのは勝手に思ってもらってかまわないんですけど。今挙げた作品も実際に素晴らしいわけですからね…

デス いや、でも、「現時点で」至高くらいにしておいて欲しい、せめてね…

オジサン まぁ、二番煎じみたいなものも確かにあるし、何をとち狂ったのか訳の分からないことになっている『バットマン vs スーパーマン』みたいなスットコドッコイな例もありますけど、そういう色んな積み重ねの上に名作は生まれるということですよね。

デス そう!

=Vol.5に続く=


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