『ラーヤと龍の王国』—分断されゆく世界で「信じる」方に賭けてみること
分断されゆく世界で「信じる」方に賭けてみること
これからの新世界を描く役割を「女こども」と「傷ついた経験のある者」に託す本作の姿勢に、胸を打たれる。いずれも大いなる喪失と不条理の只中を生きる、か弱き人々である。勝負にかける元手の少ない彼女たちが、降りかかる脅威に耐えながら世界と対抗するためには、限られたその一手の作用を最大化する必要がある。だから弱い者同士で手を取り合う以外に手は無いわけだが、この勝負一度でもしくじれば、もう後はない。切迫した決断を前に、脳裏をかすめるのはいつでもこんな問いだ— 目の前の相手は、信じて良い存在か?
一時的に利己心を放棄して利他的な選択に賭けてみる方が、自分と世界への影響力という点でずっと「コスパが良い」ケースがあることは〈 効果的な利他主義(EFFECTIVE ALTRUISM) 〉が教えている。1972年に米国の倫理学者ピーター・シンガーが提唱したこの考えは、コロナが社会の分断を加速させた2020年に再び注目を集めた。愚かな知恵者になるよりも、利口な馬鹿者になれ( シェイクスピア「十二夜」)。この映画が理想する「強さ」とは、か弱き私たちだからこそ打てる、もっとも愚かで、かつもっとも理性的な博打にほかならない。
物語を駆動する主要なキャラクターはすべて女性である。仲間同士だけでなく、好敵手さえも相棒(バディ)として共闘する姿に、現代的なシスターフッドを読み込んでみても良いかもしれない。声優を務めるのはケリー・マリー・トランとオークワフィナ(日本語吹替の吉川愛さんと高野麗さんもとても良い)。テーマ曲はジェネイ・アイコ。ついに飛び道具としてではなく、ストレートにアジア系だけで興行的にも一切見劣りしないキャストが成立する時代が到来したことも、誇らしい。
ムエタイ(タイ)とシラット(インドネシア)から着想された映画独自の体技アクションと、燃えるガジェット武器は終始「かっけー!」の一言。真似したくなる。監督は「ベイマックス」も手掛けたドン・ホールだと知れば、この少年漫画的なキメ画づくりへのこだわりと抜群の編集リズムも納得できよう(ジブリ作品の数々を呼び起こすカットも多い)。
作品に登場する架空の川は、映画の着想源である東南アジアを貫通するメコン川と通じる。メコン川の別名は「九龍」川、龍神信仰が定着する生命の水源である。大いなる河流に身を預けるほかない不確かな彼女たちの姿と、過去の過ちを水に流す物語が響き合う。作中のアジアの風景に漂う空気は、長らく行けずにいる旅行感覚を取り戻してもくれる。すこぶる気分が良い。
同時上映の短編「あの頃をもう一度」の涙腺を爆撃する素晴らしさも含め(死ぬかと思った)、鑑賞後には大満足で劇場をあとにできる。ぜひ。