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自由の刑について


休学日記ということで、何か休学にまつわることを書けたらなと思う。

休学…めっちゃ時間ある…自由…

そういえば自由については高校生の頃からよく考えていたので、今回はサルトルの
「人間は自由の刑に処せられている」
という有名な一言と共に私の自由にまつわる考えを書いていく。

この「人間は自由の刑に処せられている」というのは、自分で自由に行動できるので楽なように見えるが全て自己責任であるため逆に辛い。という意味である。

意味である。なんて文末で締めくくり断言していて自分でもビビるが、おおよそ合ってると願いたい。といってもあまり調べずに適当に書いているので気になった人は調べてほしい。

自由って逆に辛いよね。

これ共感してくれる人結構いるのではないかと思うが、サルトルなんて何年も昔の人もこういう感じのことを考えていたとは人間って本質的にはあまり変わらないのかもしれない。歴史を持っているか、持っていないかの違いだけで。

話が脱線したが、自由というものは小さい単位のものから大きいものまでいろんなスケールで存在している。

例えば、今日1日自由に過ごせるってなったら何をしようって考えることになる。
せっかくならこの1日を上手く使いたい。
せっかくあるのなら充実させたい。
でも何をすればいいのか分からない。
時間が過ぎて行く。  
辛い。

でもちゃんと目的があれば別に辛くはない。
やることが、
やらないといけない事があるのだから。
それに縛られるだけで、その時は精神的に楽に過ごせれる。

そう、目的がほしい。
その1日に意味がほしい。

私は自分で自由に使える時間より、バイトか何かで「あなたはこれをやれ」とやるべき事を決められた方がとても精神が楽である。
まぁバイトはただやるべき事をやるだけで自動的に時給が発生するので、生きているだけで意味のある時間になるという、なんて素晴らしいシステムなんだ…!とたまに感動するが、また脱線しそうなので話を戻す。

まとめると、なんでもできるという状況より何か自由を制限された方がとても精神が楽なのだ。

私は漫画を描いているのだが、原稿中はとても精神が楽である。
原稿をやるのに忙しく、他の事が出来ないからだ。締切もあるしね。
原稿さえやっていれば、それでいいからだ。
自由がないから精神がとても楽になる。

逆に原稿をやっていないときは基本的に物語を作っているのだが、つくりかたは人によって様々だし千差万別だ。
本や漫画を読んで自分で思考して何か表現する人もいるだろうし、自分の実体験から伝えたいことを表現する人もいるだろう。どれが1番いいのかも人によって違うから分からない。
だから何をしてもいい。
どうやって物語を作ってもいい。
そもそも物語を作らなくても良い。
なんならギターを片手に世界を飛び回ったっていいじゃないか!

とにかく自分で決めていかないと行動していかないといけない。自由すぎる。辛いのだ。

(自由に耐えられなくなったら映画がオススメ。自由はないが自由故の不安もない、ただ映画を見て楽しめば意味のある時間になるからだ。)

書いていて思ったのだが、キルケゴールの「不安は自由のめまいだ」という言葉とごっちゃになってしまった気がする。
しかし私はそこまで哲学に詳しくないので許してほしい。気になった人は調べてね!

一旦、自由は小さいスケールでも大きいスケールでも考えることができるというところまで話を戻す。
今までは比較的スケールの小さい自由について考えてきた。
今度は大きいスケールで考えてみようと思う。

現代の日本は身分によって仕事が決められているわけではない。恋愛も自由だし結婚だって自由だ。
昔と比べるとかなり自由で最高じゃないか、と思われるかもしれないが、実は悪い所も多少あるのだ。

自由過ぎる。可能性がありすぎるのも辛いのだ。自分は何が得意で何をして人生を生きていくのがいいのか。全く分からないまま、自分で見つけ自分で1番良いと思われる選択肢を選んでいくのだ。せっかくなら良い選択肢を…と思ってみんな悩むのだ。

実際、進学や就職、転職など自分が分岐点にたっている時、めちゃくちゃしんどい。決断するってとても勇気のいることだし、これからの人生が大きく変わるかもしれない。しかも決断した結果は全て自己責任だ。

当たり前だと思われるかもしれないが、分岐点に立って精神を病む人は少なからずいる。
何を言ってるんだ!全て自分で決められるんだぜ、楽しもうよ!なんて言う人がいるかもしれないが、私は余裕がないと楽しめないタイプなので無理。分岐点に余裕などないのだ。辛い。

これが身分によって仕事の役割が決められていたときはどうだろうか。
自分はこの仕事をやればいいのだ、これをやるのが当たり前だ、となる。自由はない。けれど不安や悩みもない。(多分何かしら悩みはあったんだろうけど)

確かに、自分はこれがやりたい!と特定の仕事をやりたかったのに違う仕事を押し付けられたり不得意なことをやらされるとなると話は別だ。それは嫌だ。
しかしみんな特定の仕事をやりたいと熱望している訳でも自分の不得意をしっかり理解しているわけではないので今はスルーしておく。
なんなら私もAIとかに「あなたはこの仕事につくのがいいよ」とか言われたら、その通りに気がする。

恋愛についても似たような考えが言えるのだが、長くなるので今回は省略する。

ところで、

私は高校1年生の頃、日々先が見えない人生を送りたいと思っていた。今思えば、若いなぁ〜と言ってしまいそうだ。
要するにいきがっていたのだ。

私の人生なんだ、人が敷いたレールの上なんかを走ってたまるか…!

というような若さ故のよくある考えだとは思うが、高校3年になる頃には
でもそのレールの上を走るのはどれだけ難しいか
ということも考えるようになった。これも一応頭に入れておきたい。
(この話に焦点を当てるとまた話しがズレるので一応で留めておこう)

要するに昔は

自分の人生は自分で自由に決めてやる!

という感じだったが、その後

奴隷と気づかない奴隷で人生を送りたい…

というふうに変わってしまった。
は?なんだこいつ。となるかもしれないが、
分かりやすく要約すると
楽に生きたい…ということだ。

今読んでくださっている方は、奴隷というかなりキツめの言葉に若干引いてる方もいるかもしれないが、それなりに理由があるのだ。

ウソ。
奴隷というのはウソ。強い言葉を使ってしまって申し訳ない。
時代によっては奴隷と似たものになるという意味合いで使っているので、ここでなんだコイツと冷めてしまった人も、もう少し付き合っていただけると嬉しい。

現代でもちょこちょこ言われていることなので、皆さんも勘づいているかもしれないが、
先ほどの奴隷という言葉は現代の会社勤めの人を指している。奴隷は自由がないというイメージがある。
何回も言うが、現代の会社勤めを奴隷だと言っているわけではなく、構造が似てるため時代によっては似ている存在かもね!というぐらいだし、会社で働いている人達のおかげで日本の経済は回って私達も生活できているのだから感謝しかない。ということを頭に入れつつ、考えていこうと思う。

まず、分かりやすくするために会社勤めの人を、人の指示をきいて言われた通りに行動して賃金をもらう人、としよう。
(厳密に言うと実際はそうではないが)

これは時代によっては主人の言われた通りに行動して、ご飯を食べさせてもらう奴隷の人達と構造が似ている。

指示通りの仕事をして失敗したら、自分の責任ではなく指示をした人が悪いと言える。

また会社が倒産しても別の会社へ行けばいい。倒産した責任は経営者に行くからだ。
主人が奴隷を持つ余裕がなくなったら、別のとこへ売られるだけだ。

自由はないけど不安はない。優秀な人について行った方が、気が楽だし安心できる。

一方、労働環境も休みも人間関係も自分で自由に決められるフリーランスはストレスなく
楽なようにみえるが、何から何まで自分で責任をとらねばならず、収入の安定が保証されていないので不安しかない。

自由はあるけど、不安はない。

じゃあ昔のいわゆる奴隷の人達に制限ある自由を与えたらどうだろうか。いつも頑張ってくれているし、あまりきつくすると反乱をおこしかねない。ということで週に2日とかの休みを与える。そうすればもはや会社勤めとあまり変わらなくなるかもしれない。

奴隷と気づかない奴隷。

不自由だと感じないくらいの少しの自由だけしかなかったら、不安を飼い慣らして生きれるかもしれない。

楽に行きたい。レールはどこだ。あれ、レールの上運転するのってもしかして難しいのかもしれない。

というふうに高校生のころ考えが移ったりしていたのだ。

が、会社勤めもフリーランスもそうでない人も様々な悩みや大変なことがあるので一概には言えない。何でもそうだが。

それにこの記事を書く前に、まず私が会社で働いてから書け!!と思ったが、後で振り返って稚拙な考えに恥ずかしくなるのも込みでブログだと思うので許して欲しい。

また自由があるからこういうことを考えるのだ。私は不安はあるし、精神も辛いが自由でなりよりとも思っていたりもする。

それに今ではもう大きいスケールでの自由についてはあまり考えることが少なくなった。

人生に意味は無いとよく言うし、

意味なんかなくて良かったなと私は思うけれど、

実際みんな人生に意味を求めてしまうし

(人生に意味や目的があると、その目的に向かって日々決められたことをやるはずなので、自由に怯えることもなくなる。)

人生は意味よりも大切なものがあるのではないか、

いやそうであって欲しいなとも思ったりする。

私の今の自由についての考えはここら辺で止まっている。

というか、日々生きるのに精一杯というか。こうやって興味がなくなって、若さを失っていくのかもしれない。

実際、数年前に

私は遺伝子の奴隷にはならない!

みたいなことを言って本能に抗おうとしてみたりしていたが、今ではそんなことどうでも良くなってしまった。

あぁこういうことが若さなのかなと一時期思ったりもした。

時間があるときに、利己的な遺伝子について考えれたらなと思う。
が、
だいぶ忙しくなってきたので
しばらく更新が止まるかもしれない。



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