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高3ゼロ学期、実家全焼からの3年間について
はじめに
はじめまして、よしやと申します。普段は元気に都内で大学生をやっています。
理由はなんであれ、おそらくはアリャリャ〜とこの記事を覗きに来てくださった方、ありがとうございます。とりあえずはじめにこの記事を書こうと思った経緯についてご説明いたします。
さて、人生って本当に何があるかわかりません。筆者の場合はマジで運悪く、高校2年生の冬に実家が全焼してしまいました。原因はよく分からず、漏電ということになりました。
実家がなくなってしまってからの数年間、順当に挫けながら、いろいろなことを考えました。
“挫けた”をすご〜く簡単にいうと、火事をへてPTSD(ストレス障害のひとつ)になりきれなかったものの、そこそこ傷を負っている状態で暮らし続けて空回りしていたという感じ。結局お医者様にはかからなかったので自己判断なのですが、火災から3年ほど経った頃、自分が常日頃から悩まされていた思考や認識が、部分的なPTSDの症状からくるものだと気づきました。
症状は大きく分けて3点。
・感情の麻痺
・火災以前の自己に対する非現実感、健忘
・「不安なことを考えるべきではない」という強迫観念からくる、過度に楽観的な侵入思考
これを受けて歪みまくった思考のせいでかなり生きづらかったのですが、火事をもう過去のものとしていたことと、途中大学入学を経て思考が大人になったのだと受け止めたこともあってメンタルケアに行く気にもなれず。
しかし悩み続けてずるずると3年ほど経ったころ、自分の考え方が明らかに変だと自覚し始め、それから日毎に色んな思考のひずみに気づいていきました。 一方で、これまで本気にしていた、不格好ながらも自分を支えていた信念が日に日に薄れていき、自分から抜け落ちていくのを感じていて。それが、この3年間がまるっきり無駄だったと突きつけられているようで悔しいので、こんな人もいたよと胸をはって言えるようになろうと思いnoteに書くことにしました。
以下はここ数年の出来事や思考を、なるべく当時の想いのまま整理したものです。
そしてこれは治療を施したのではなく、生活の中で寛解していったPTSD(かも)の記録であり、ひとえに言えば筆者の冗長な自伝になるのですが、まさに大変なことが起こったぞって人をはじめに、いろんな人の目に留まればと思っています。よろしければお付き合いくださいませ。
プロローグ 実家燃えちゃった
高校2年生の冬。家族のみんながそろう1月の、日曜日の朝。
目が覚めてからもしばらく2階の自室でゴロゴロしていると、いつになく大きな家族の騒ぎ声が聞こえはじめ、ドタバタと足音が響くのに気づいた。また野良猫でも入り込んできたのか、一目見ようじゃないかと降りてみると、キッチンから家の奥にかけてそこらじゅうが水浸しになっている。まもなく母親が来てこう言い放った。
「火事、お風呂場!」
お風呂、今から入ろうとしてたんだけど!?
我が家のお風呂場は、居住スペースからだいぶ離れた家の奥にあった。わたしは冬の朝、冷え切った廊下を抜けた先でシャワーを浴びながら、朝日を受けて白く光るくもりガラスの大窓を見るのがいっとうに好きだったのだが。さようなら、朝風呂。
ボヤですみそうなの?とか聞く暇もなく母は家の2階へ駆けて行ったから、とりあえず床に放り出されていたタライに水を入れて、白くモヤのかかる方へと走った。視界はどんどん悪くなっていき、咳が出た。途中滑って転んで、廊下に水をぶちまけた。見上げるとすぐ向こう、いつも薄暗くてひんやりしていたお風呂場への道が今は真っ赤で、ほのかな熱気が顔に届く。
サァッと頭に冷たい血が流れて身震いをした。よろよろと立ち上がれば、思い切り打ちつけた胸が痛くてたまらない。心に動揺と無力感は取り敢えず、大博打を前にしたかのような不安が押し寄せた。それまではとくに浮き沈みのなかった人生が大きく動くような感覚だった。
もうできることはない、多分もう息も吸ってはいけない、ここにいると死んでしまうから家を出なければ。そう思いつつもなるたけゆっくり、通りすがりに家の隅々を眺めながら、寝巻きのまま玄関を出た。
外に出ると兄と姉がいて、まもなく父と母もやってきた。幸いなことに家族全員が揃った。
消防車へは発見者でもあった地域住民の方が通報してくれたようで、それからは取り調べを受けながら数時間、燃える我が家を見つめていました。この時のことはよく覚えてないので、ダイジェストで以下のような感じ。
・この時点で気持ちはひどく楽観的で、明日学校にいけないどうしよ〜とか、吾輩の部屋が心配とか、そんなものだった。
・家族も笑っていた。
・銅板の屋根にあがる緑青色の炎が、その後ろの青空に重なってとても綺麗だった。
・小学生の女の子が淡いむらさき色の可愛いスマホ片手に我が家を撮っているのをみて、人生で初めて、ふるえるほどの怒りが湧いた。ぼろぼろ涙が出て、睨んで、走っていって怒鳴ってやろうかと思ったけど姉が止めてくれた。
・テレビ局も来ていたけど、そっちはあまり気にならなかった。
・日本赤十字の方がいらっしゃって、家族分の毛布をくれた。
後日消防による現場検証のあと、家に入る許可が降りました。我が家は骨組みがしっかりしていたらしく、各部屋が釜のような状態になり内部だけが燃えたようでした。
わたしの部屋は半分焦げ焦げくらいだったのですが、悲しいかな部屋半分の物置きゾーンをやられてしまったので、私物は作業ゾーンに置いてあった勉強道具と学校の制服だけが残りました。あとNintendo Switch。7年前に買ったあやつはかなりの高温に耐えたのち今も現役です。マジですごいです。
大学受験頑張るぞ
そんなこんなで失意に暮れた我が家。しかし家族は全員生き残ったのだしなんとか持ち直していこうと、とりあえず1年後に控えていたわたしの大学受験応援モードになりました。重圧!
カツカツの家なりに、教育費は惜しまずに兄妹3人へ満遍なく注ぎ込んでくれた両親。わたしは幼小中高ととにかく不真面目不勉強で仕方のないもんでしたが、この1年間は無闇矢鱈に頑張りました。
志望校にはなんとか合格することができ、合格を伝えた時の家族の笑顔、それと家のことを知っていた担任の先生が我が事のように喜んでいた姿が今でも忘れられません。
以下は、受験のあいだ考えていたこと。
(半分オタクの話ですが、オタクにとってオタクの話は大事なので大目に見てください。)
失望だ!推し活だ!
2月、実家は更地になり、大きな喪失感と共にわりと毎日憂鬱に過ごしていました。寝て、食べ、寝て、食べ、寝る感じ。そんなわたしを見かねた母親が小遣いを握らせたので、とある特別展を見に九州国立博物館に行きました。
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これ。祈りの美っちゅうやつです、うつくしい……。
九州国立博物館、ちぢめて九博。中学1年生のときに初めてここを訪れてからはすっかり虜になってしまって、以来定期的に足を運んでは馴染みの文物に癒される特別な場所でした。自然と学芸員に興味を持ち、大学は美術史が思いきりできるところを目指していました。
それまで仏像は運慶仏とかを見て造形に惚れ惚れする程度でしたが、この時はひとつひとつの展示物が今に残されていることの幸運を噛み締めながら、とにかく目に焼き付けよう、焼き付けなければと必死で見た記憶があります。
で、問題はこのとき別室の企画展でやっていた「天神縁起の世界」のほう。九博が置かれた地であり天神さまが骨を埋めた太宰府、ひいては福岡県に伝わる、天神縁起にまつわる品々についての特集展示。そこにこんなものがありました。
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……?
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九博の当展示では撮影禁止だったような気がします
近づいてみるとまあ、凛々しくていい顔の青年だ。漫画『応天の門』の主人公、菅原道真……あさきゆめみしとか、その系譜の歴史漫画なんだろうか。
キャプションを見ると、かの太宰府天満宮へ、宝物殿にて企画展を開いた折に奉納された色紙らしい。なんなんだそのアツい歴史は。
太宰府天満宮は菅原道真の墓地である。晴明神社や東照宮のように故人を祀る社寺は色々あるが、ここには社殿の下に骨が埋められている。いわば古墳やピラミッドに似た死者のための土地が神社の作法と融合した、異質な祈りの空間である。そんな太宰府の地に、自分の行く末を知らぬ若々しい姿で慧眼を嵌めた菅原道真の肖像があるのは、はっきり言って奇妙なものだった。
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その後立ち寄ったミュージアムショップにはずらっと応天の門が並んでいて、一巻の表紙をチラッと見た。右側の小僧が菅原道真である。顔が好きだった。
でも今は漫画を読む暇なんてマジでない。勉強をせねば……それにしても、顔が好きだった。
2ヶ月引きずり、既刊全巻を購入。
(今や伝説となったDMMブックスの100冊70%OFFキャンペーン、蔵書ゼロになった我が家にとって僥倖すぎました。その節は本当にありがとうございました。)
推し活で鬱寛解です。4月は夢中で漫画を読み通し、流れるように伝記、続けて菅家文草(菅原道真の漢詩文集)を読み漁り、5月はその既読箇所が模試に出てきてひとりほくそ笑んだ。初めて高校の図書室に行き本を借りまくったりもして、ものすごい速さと熱量で菅原道真の虜になりました。生来オタク気質の心にあいた穴に、天神が衝突した。なんなら学問の神様だし、いま天神信仰しといて損はないだろと。まともとは思えぬ。
真面目な話に戻ると、応天の門でわたしと同じく18歳だった彼の姿にはかなり助けられました。作中で誰よりも賢く若すぎる道真が「何のために知恵を使うのか」を選択していく姿は、その頃ほぼ勉強のためだけに生きていた自分にとってまさに鑑のような存在で、本ッ当〜〜にかっこよかった!あの頃のわたしにとって紛れもなくヒーローでした。
応天の門のことは今でも超好きなのですが、それにしても推し方が変だと最近になって気づいたので、このことはまた別の記事にまとめようと思っています。
深刻なニブチン化
そうしてヲタクフル稼働の傍らせっせと受験勉強をしていると、なんだか自分が、以前に増してすごく生きやすいことに気づきました。前まではお父さんがウザいとか年相応の悩みがあり毎日浮き沈みがあったはずが、あらゆる物事を軽くしか捉えられなくなり、それに併せて感情も希薄になったようでした。
PTSDかも①
感情の麻痺
どんなことが起ころうと極限「うれしいな」「かなしいな」しか気持ちが湧かず、ただ静観を貫く。パッションのない竈門炭治郎の完成である。
ただこの時この事態に危機感はなく、むしろ元来より尼僧とかになって慎ましく暮らしたいなぁとか思っていたので、ついに悟りを得てしまったかと内心まんざらでもなかったし、嬉しさすら感じていました。どうやら人間はすさまじい経験をした後では心の反応が鈍くなるらしく、私の場合はそれを火事を経て心が強くなったと勘違いし成功体験にまでしていた感じがします。よくできてるぅ〜
あと、特に受験を控えている身としては、いつでも平常心を保てることが本当に心地よかった。一つの目標へ邁進していく過程では、ただただ目先の将来がひらけていて最強の気分でした。
しか〜しこれ、ものすごくつまらないのです。心が動かないと自分がいつまでも成長できないような感じがするし、何より想像力が乏しくなったり、誰に対しても共感できずうわべだけで親身にするのがかなりこたえました。
薄々、我ながら人間らしくないなあとモヤモヤし始めて、このままで良いはずがないと振り切れたのは大学に入ってしばらくのことでした。
研鑽破れてメタ認知
話は飛んで大学生活、一人暮らしの始まりです。
私の入った学科はごく少人数、基本はその学年学科単位で授業が行われるので、まずは同期の集まるオリエンテーションで自己紹介をすることに。キラキラ輝く同期生たちが淡々と、人生の詰まった自己紹介をしていく中、ドッドッドと心臓が、ダラダラと手汗がすごいし、そもそも自己紹介って何を紹介するんだっけ?あれ、あれれ、わからん。あれれ?
わたしって何が好きな人だったんだ?
PTSDかも②
健忘と自己喪失
自分らしさって何だ
あわてて受験のことに続け、高校、中学校、小学校、幼稚園の頃を思い出そうとした。けれど、まさに記憶が抜け落ちたようにわからなかった。将来何になりたかったんだっけ?中学時代の断片的な記憶いわく、博物館学芸員だそうだ。しかし、なにがやりたくて?いつの日か絶対ここに進学しなければと決めていたから必死で入ったこの大学、ただ学芸員になりたいならまず選ばないところである。
そんなことを始めとして、今までどういう生活を送ってきて、どんなことを考えてきて、なにに感銘を受けるのかとか、自分のことがさっぱりわからなくなっていた。炎に消えてしまったたくさんのモノと一緒に、自分の記憶も消えてしまっていることに気づいた。その瞬間座ったままにクラっときて、このまま休学してしまおうかと思ったのを今でも覚えている。。。
(余談ですが、大学を選んだ本当のところの理由は火事から3年と少しが経った頃、人に聞かれて急に思い出しました。聞くところ人の細胞は3年半で入れ替わるらしく、よくある"3年が肝"な言説は侮れない気がします。)
このパニック☆オリエンテーションは思い出せもしないくらいズタズタの自己紹介で凌いだのだが、ここからしばらくは大学の課題をそこそこに、自分探しに試行錯誤することとなりました。第二の自我、爆誕……
お買い物、してみた
まず、好みを知りたい。
自分で自分の好みを感知できるのは何をもってか?
それはもっとも直感的な視覚によってわかるもの、アイコンとなる服であろう。持ち物であろう。部屋の隅々であろう。
わたしには、それがない。
爆買いをした。世は大ファストファッション時代、大学生もその気になれば爆買いができるものである。
心が少しでも動くものはなるべく買い、買い溜めた雑貨や書籍を見てようやく思い出してきた。物量彩度最強最強最強!真っ白のお部屋?大理石シート?ありえない。カラフルでグッドデザインの何某、いい匂いの汁、見栄えのするキッチン用品、とにかく紙製品、ぬいぐるみ、かわいいぬの、あと美味しいもの。ほぼ日曜日が大好きです。
でも当然物量だけでは自分のことなんてわからないので、あとは博物館に行ったり絵を描いたり隙あらば旅行したり、目についたものの写真を撮りまくったりしていました。
写真は特に思い出深いのが、大学の課題でモノクロフィルム写真を撮りまくってこいと言われた時のこと。本当に好き勝手撮ったので、後日撮った写真の中からテーマを決めて5枚発表してねと言われたときマジでテーマらしいテーマが思いあたらず、「私の好きなもの」と題してゴリ押しました。
以下はその中の何枚か。同じく無茶振りされた同期たちはものすごく凝ったテーマでむつかしいことを言っていたので、この時ほど居た堪れなかった現場はないです。
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この爆消費活動、当然バイトだけでは賄いきれないので家族から格別なご高配を賜りました。今度あらためて頭下げようと思います。
エンタメ、見てみた
喜びと哀しみのふたつをローテーションし続けて2年が経った頃だろうか、ある日ふと、憎しみにも似たこんな感情が湧いた。
怒りたい、泣きたい。
赤ちゃんでもできることができない、なんたる屈辱かとうっすら哀しむ毎日。こりゃいけないなと思い、意識して感情的になるため本を読んだり映画を見たり、とにかく人の感情をインプットすることにしました。化け物?
なんとかなれ〜ッと思いながら取り組んだこれは(おそらく)功を奏し、最近は段々と自分の正直な気持ちを出せるようになってきました。うまくいかないことがあって泣いたり、誰かのために怒ったりできた時は、成長の与力をもらえたような気がして安心します。
普通にそれはそれで大変なので参っちゃうこともあるけれど、もう今生はなるべく悟りたくないです。ブッダはすごい。
ちなみに、この過程で一番自分を動かしてくれたものは宝塚歌劇のような気がしています。上京前から漠然と憧れていたその舞台を大学2年生のとき運よく観劇できたのですが、そのときは舞台上の何もかもオーバーな生き様が衝撃的で、それからのめり込むように何十作も観劇しました。こういった不意の巡り合わせには助けられていることばかりで、もしそのひとつひとつが自分に欠けていたらと思うとぞっとします。
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勉強、してみた
最後に、大学生活を振り返ってのこと。先につらつら述べたものは自分にとってわりと些細なことで、当然というべきか、大学で勉強をしながら、いろんな人に出会いながら考えていたことの方でしょっちゅう落ち込んでいました。
はじめ言ったように、大学では美術史をモリモリやりました。美術品よりも史跡の多いド田舎から東京へ出て、都会に蔓延る現代美術にビックリしながら芸術や美術品と葛藤する日々。
美術史を学ぶのはとても楽しくて、特に作品研究では、物言わぬ文物に対してどれだけ真摯になれるかを試されている感じが面白く、一番自分を成長させてくれた部分だなと感じます。いうて学業をうまくやれてないので勉強の話はこの辺にしときます。
ほんで成長とは他でもなく、自分の歪みまくって生きづらかった思考をどうにか一般の感覚に寄せていくことでした。最高にイカれたメンバーを紹介するぜ!
PTSDかも③
ド・楽観思考
コイツが本当に難儀であり、出所がよくわからないのでもしや自分の本来の性格なんじゃないかと放ってしまったものでした。でも信じられないくらい日常に支障をきたしていて、例えば受験期はどんなに模試の結果が悪くてもどうせ合格するやろと思っちゃうとか、大学では過ぎてはいけない締め切りが過ぎてもなんとかなると思っちゃうとか、そんなわけないだろうが。
受験期はまだよかったのです。勉強しながら落ち込まないよりいいことはないです。でも大学に入ると話は別で、少しでも不安なこと(大学生なので、課題や単位など)を考えるとスパーンと根拠のない楽観思考が飛び込んで問題を有耶無耶にしてしまうので、そこでなんかおかしいなと気づきました。本当に憶測ですが、火災のあと目先の将来が全くわからず不安な状態が続き疲弊しきってしまって、とにかくネガティブなことを考えないようにしようと不安を押し込めた経験があり、それが転化したもののような気がします。
おかしいなと気づいた時には常在化した楽観思考が頭の隅々に行き届いていて、根本的なモノの価値観とかにまでヒビが入っていたので、これがド厄介でした。noteを書いている今まさに忘れかけているので解像度が低くて申し訳ないのですが、
・自分の理解が追いつかないもの【不安】を自分の中で分解して、過度にわかった気になる【楽観】
・自分の理解しているもの【不安】を無価値であると切り捨てる【楽観】
このふたつの価値観が頭から離れなかった。スパイラル構造が伝わるだろうか、最悪です。
”不安”を噛み砕くと、前者は大学のレベルの高さへの不安からくるもので、後者は自分のレベルの低さへの不安からくるもののよう。自己肯定感が低いってこったね。これらをもって勉強したり人と話すとどうなるかというと、「なんでこんなつまらないことを必死にやるのだろう?」これです。これをこの世の全てに本気で感じていました。最悪だ!
で、話は戻って美術芸術とカチ合うために最低限持っておかないといけない姿勢(※主観)とは何かというと、
・事実に対する疑念を常にもつこと
・その存在をひとまず肯定すること
このふたつかな、と感じています。まるっきり逆なのだ。どんな問題にも言えることなのですが、何かに真摯に向き合うため本当に大切なことを大学で学ぶことができ、価値観をブチ壊して、最近ようやくスタートラインに立てたような気でいます。
”芸術とわたしの考え方は全然噛み合わなくて、それがいちばん辛い。”
これが大学1年生の時のメモなのですが、行って抱きしめてあげたいですね。
おわります
以上、PTSD(仮)との格闘記でした。
乱文をご容赦ください。ここまでお読みいただき本当にありがとうございました!
マジ長くなりますがあとはこぼれ話を少々、最後にドバッと書き連ねておきたいと思います。
こぼれ話いろいろ
アドバイスには満たないが譲れないことの話です。
・火事場の動画をスマホで撮るのはやめよう
気持ち悪い!!!SNSにも載せるんじゃないよ!!!!!!!
・大変なことが起きたら精神科に行こう
わたしは一旦最強の気分になったゆえにカウンセリングとかには行かない判断をして今こんなのを書いているわけなのですが、諸々の事情からくる鬱もあり学生生活うまく行かなくて大変でした。ショックを受けて当然の事態が起こった後とか、自分でわかるくらいの性格の変化には慎重になって、ひとまず専門家に聞くべきなのだろうなと思います。その先にある先生良し悪しの話はまあ、ホンマに、知らんけど……。
・カミングアウトのこと
自己研鑽の過程で偶然PTSDらしきものにぶち当たって、自分を理解することを通じてゆっくり寛解させていった形になるので、途中、周囲にカミングアウトするタイミングを逃してしまったことが気がかりです。
というのも、健忘のこともあって自分自身がなんなのかよく分かっていなかったので、一時期自分が全部嘘で塗り固められているような気がして参ってしまったことがありました。思えば昔からの友人に違和感を持たれたことは(多分)ないので自分のふるまいで大きく変わった部分はないのですが、友人に状況を打ち明けながら、一人で抱え込まず自分を委ねられていたらもっといい形でいられたかも、という気がしています。
・日記はいい文化
どこかで、過去を振り切ってこそ自分の道を突き進めるのだとか聞きましたが、勝手に過去を断ち切られては困るものだなと痛感しました。備えて、忘れたくないことだけでもやっぱりメモしとくといいですね。
マジ余談ですが、日記は燃やすと燃えますがTwitterは燃えないので、過去の自分の日常ツイートとかを見れたのがわりと助かりました。能天気なアホで安心しました。
・ありがとうね〜
最後にチラッといったのですが私は自己肯定感が低くて何かを発信するのが本当に苦手で。このnoteを書くにも意味とか意義とかをすぐ気にしてしまって普通に今も気にしているのですが、それはそうとして自意識を高めまくったここ数年がかなり面白くて死ぬほど辛くて、これは絶対文字にしないとダメだろうという思いも一時期消えかけるほど自己発信が苦手で。でも大学で出会った友人たちをはじめとして、自己実現に取り組む人たちをたくさんたくさん見ていく中で私も何かやったろうかなという気にさせられて、今ようやっとひとつだけ漕ぎつけられて嬉しいです。ありがとうね〜
・できないこと
高1の時学年上位だった小論模試が高3で学年最下位タイになっていて、まともに文字を紡ぐこともできなくなっていることにずっと前から気づいていたのに特に何もしていなくてヤバいので、肩慣らしとして暇〜〜〜な時にnoteを書くことにしました。感覚を取り戻すまでにはまだ時間がかかりそうですが、よろしければお付き合いくださいませ。
ここまで!読んでくださり!本当に、ありがとうございました!