#001 とりあえず大盛りで
「ご飯無料で大盛りにできますが、いかがいたしますか?」
「あ、じゃあとりあえず大盛りで」
と、私は流れるように答えた。 決して無料ならば!という貧乏性でも、お腹が空いて気が狂いそう!という飢餓症状があるわけではない。 だが、せっかく定員さんが気を利かせてサービスを提示してくれたのだ。 それを無下に断るのは無粋ではないか。 私はさも当然のように、かつ感謝のほほえみを忘れずに大盛りをお願いした。 端的に言えば、そう聞かれれば習慣的に(あるいは考えなしに)そう答えてしまっているだけであるが。
「生姜焼き定食 ご飯大盛りです。 キャベツはおかわり自由です ごゆっくりどうぞ。」
しめしめ、ご飯だけではなくキャベツも追加で食べれる。私はいそいそと割り箸を割った。 こういった定食では”いつ””なにを””どの程度のペース”で食べるか、が重要だ。 醤油香る生姜焼きですぐにでもご飯をかきこみたい所だが、キャベツはおかわり自由だ。 ここはキャベツを軸に生姜焼きを食い進め、お肉に対して少々多めのご飯を、タレをまぶしながら食べることにしよう。 私は独り言ち、食べ始めた。
順調に食べ進め、キャベツのおかわりもし、さぁ終盤のご飯に差し掛かった。 待ってましたとばかりに胃袋が歓声をあげ、ご飯を迎えうつ・・・・はずだったのだが、歓声が聞こえない。 そればかりか「えっ?まだ来るんですか?」と満腹が近いことを脳に訴えてくる。 おかしい。 確かにキャベツをがっつきはしたが、まだまだ前半戦。 せっかく大盛りにしてもらったご飯も半分程度食べた程度だ。 しかし脳は、そして胃は「満腹が近いぞ!」と私に訴えかけてくる。 ペースが乱されたと言って焦っては行けない。 こういうときはお茶でもすすりながら一息をつこう。
そんな様子を見ていた妻が私にこういった。
「最近そんなに食べられないのに、なんで大盛りにしたの? おかわりまでして・・・。」
そう。 心はまだまだ若いと思っていても、私ことやすお・すかいうぉーかーは今年でアラフォー。 徐々に歳を感じる瞬間が増えてきている。 動きは以前のキレや精彩を欠き、食事はさほど食べられず、記憶すら抜ける速度が上がっている気がする。 それとは対象的に今年(執筆時点2023年)3歳を迎え、毎日スポンジのように物事を吸収していく娘は、親が驚くような小さいこと、一瞬の出来事を覚えていたりする。 彼女の成長は本当に凄まじく、毎日、いや、ふとした瞬間の前後ですら変化をみせたりする。
娘の成長や変化の前後には、私や妻にとって大きな感情の起伏を提供する。 嬉しいという感情はもちろん、おもわず笑ってしまうことも珍しくない。 しかしどうだ。 そんな出来事が”あった”、という思い出はあっても、それが”なんであった”かの記憶はどんどん薄れていく。 これがごはん大盛りすら食べられなくなってきたアラフォーの限界なのか。 振り返って幸せだった、という感情しか残らないことは確かに素敵なことではある。 が、妻や娘と過ごした時間が”幸せ”の一言で片付いてしまうのは、少々もったいなくはないか。
写真やビデオで残せるものもあるが、この”幸せ”という一言で片付いてしまう何気ない一瞬は特別な瞬間だけではなく、ふとした日常に潜んでいる。 写真やビデオはそれらを記録してくれないことが多い。 では何か形に残せないか、と思い趣味がてら筆(実際にはキーボードだが)を取ることとしたわけだ。
長々と書いたが、要するに自己紹介である。 育児に限らず、私と私を取り巻く出来事を、私の感情や興味の赴くまま記録していこうと思っている。
なにか皆さんの中に、私が感じたものと同じような感情が芽生えることを願って結びとする。
しかし人間は反省しない生き物だ。
「ラーメンの麺大盛りにできますが、どうしますか?」
「あ、とりあえず大盛りで」
私は今日も流れるようにこう答えた。 ラーメンとミニチャーシュー丼を頼んでいるにも関わらず、だ。