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おもてなし料理への憧れ
職場で誰かが「うちにおいでよ」と言ってくれることがある。みんな、「行きます!」「行きたい!」と即答し、楽しそうにしている。でも私は、笑顔で場の空気に合わせていても、「もてなされたくない」と思っていた。
もてなす人は、持っている人だ。
持ち家だとか、料理に自信があるとか、立場が上ですり寄りたい人が周囲にいるとか、お金があるとか。
もてなされることは、ほどこされることだと感じる。
私は、上に立ちたかった。「もてなされたくない」のは、もてなす側になりたかったからだ。
おもてなし料理にも憧れていた。
持っている人になって、誰かをもてなすことを空想することもあった。
仕事が安定していて、子どもがいる設定だ。
現実の私は、子どもはおらず、正社員でも向いていない仕事に心身をすり減らし、家も片付かず、料理はほとんどしていなかった。そもそも、自信を持って提供できる料理レパートリーなんて持っていなかった。
何も持っていない私は、誰からももてなしてほしいと思ってもらえなかった。気持ち悪い妄想はするくせに、図々しく誘うこともできなかった。そんなにもてなしたいなら、いとこや甥っ子ぐらい家に誘っても良かったのに、と思ってしまう。
40代になった今だったら、「うちにおいでよ」と言ってくれた先輩に「行きます」と即答できる気がする。もてなす人は上に立つ人なんて一面的な見方ではなく、人をケアするのが好きな人もいるよなと思えている。
何であんなに上に立つことに拘っていたのか…。今は、親にとられ続けてきたマウントを、私もとる側になってせいせいしたいと思っていただけだと、何となく理解している。そして、みっともない自分を許す。親のように上に立ちたいくせに、図々しくなれず、一人モヤモヤしていた自分を謙虚でいいじゃないかとも思う。
いつか私も人をもてなす日がくるかもしれないし。ごちそうは、テイクアウトでもいい。まずはコーヒーを淹れるくらいからでもいいんじゃない?と考え、そんな日が来るのを楽しみにしている。
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これをコーヒーのお供に用意するのもいいんじゃない?
見出し画像は、大好きだったエビスザホップとお寿司で退職祝いの日(2011年7月)