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自己紹介続き
昭和の中頃、神奈川県に生まれ、平成初期に沖縄移住。いつの間にか人生半分くらい『うちなーライフ』(沖縄県民)のアラカンとなった。
我が半生を振り返ると、大きな転機はやはり大学三年次の決断だと思う。
その決断に至る過程を簡単に振り返ってみよう。
令和5年から見ると御伽噺に聞こえるかもしれない。
令和元年に他界した亡父は、東京都新宿区早稲田に敷地数百坪とも云われた邸宅(曽祖父宅)の離れで生まれたらしい。それこそ、おぼっちゃま育ちそのもの、しかも戦前に祖父の転勤に伴いオーストラリア🇦🇺メルボルンの小学校生活も経験していた。
お嬢様勝負では令和二年に旅立った母親も負けていない、母方の高祖父は維新の十傑の一人、その関係で爵位をプレゼントされた家系の末娘は生まれながらの伯爵令嬢。
昭和中頃に聞かされた逸話は驚くものばかり、例えば、昭和30年代には週刊誌や新聞社がとあるカトリック系専門学校OGの母を追っかけていたらしい!母親が逝ったあと母の親友に聞いたら本当のことだった。
そんな両親も昭和あるあるの見合い結婚。気づいた時には、二児に恵まれ、よく言って中の上くらいの普通の生活。一生定職に就かず、専業主婦歴50余年も、令和の非常識は昭和の常識。
そんな家庭の長男としては、両親というよりも、母方の祖父に大切にされた記憶が強く残っている。
帝国大学から海軍に進んだ祖父は戦前は呉や神戸の海軍工廠に勤務していた。
戦後は、とある私立大学工学部で教鞭を握っていた。
伯父が銀行マンだった故か、祖父にとっては孫たちをエンジニアにすることが生き甲斐だったのかもしれない。
幸い学力勝負よりも、くじ運に恵まれ国立大学附属小学校から中学校へ進学後、高校は守備よく某東京六大学の系列の高校に滑り込んだ。
その延長で大学進学時の高校3年時の冬休みが、一つ目の転換期。内申点から系列大学工学部の希望する学科への進学を諦め、某国立大学の海洋工学関係学部に狙いを定めて共通一次試験の願書を提出し、文字通り正月返上ので覚悟で机に向かっていた。そんな最中、やがて年末も差し迫ってから担任からの呼び出し。希望する学科ではなく、ブランド大学、看板学部の日陰とも言える地味な学科への推薦打診。家に持ち帰らずその場で断る勇気も無く、帰宅後、惰性で共通一次試験願書破り捨てた。
それからは、受験勉強の反動か、周囲のガリ勉連中を傍目に自動車教習所通って運転免許を高校在学中に取得。桜舞い散る季節へて、進学した先では、授業はそこそこに部活動に夢中になった(年間合宿生活60日)
必要最小限の単位を取得していた大学二年時の春休みが二つ目の転換期。昭和45年の大阪万博には父親の出張にお供して生まれて初めて飛行機体験も、昭和50年の沖縄海洋博覧会には経済的理由で家族全員不参加。そんな残念な気持ちを引きずった学生に渡(ワタリ)に船の船切符。琉球海運の貨客船『さんしゃいんおきなわ』で50時間かけて向かった先は日本最南の島々。とある旅行雑誌のアルバイトだが、使える経費は雀の涙?最初の訪問地『渡嘉敷島』民宿ケラマ荘、そこでの出来事も今から思えば一つの運命の転換期だったかもしれない。
薄い財布を見ながら『できれば素泊まりですお願いします』に笑顔で応える民宿のおばちゃん(女将さん)、何故か夕食も朝食も出されたので覚悟決めて出発の際に二食付き料金差し出したところ、にっこり笑顔で素泊まり料金しか受け取らない恩人の顔は、今でも時々思い出す。
それから行く先々で似たような素朴なおもてなし受けたウブな学生は『沖縄病に罹患』、あっという間に進学期迎えた際に20歳の反抗期発動⁉︎現役合格を盾に無理矢理1年間休学宣言。渋る父親には必ず復学を約束して晴れてフリーライター稼業。沖縄・信州・北海道などなど魅力的な観光地の比較的ヒマな季節の取材にはどこもかしこも大歓迎。あっという間に大学三年次の春休み終了して、新学期を迎えた。
流石に父親との約束を守り、張り切って臨んだ新学期最初だけ授業の一コマ
なんと
『臨時休講』との掲示板
今でもその音が再現できるくらい鮮やかに自分自身の体と大学との間のロープだか紐だか、はたまた鎖だかがブチ切れる音が聞こえた(気がした)。
やったー自由だと一人興奮して帰宅した夜、勇気を絞って父親に直訴したことは、大学中退して社会人になる宣言。
予想はしていたが、激怒した父親から人生初の
『勘当宣言』
慌てふためくお嬢様キャラの母親を宥めてお世話になりましたと家を出た。
この大学三年次の岐路における決断こそ、最高にして最大級の出来事。
以後40余年、決して強がりでも負け惜しみでもなく、その時の決断そのものを悔やんだ事はない。
もちろん、綺麗事ばかりではなく、山あり谷ありジェットコースターコース。電気もガスも水道も、ついでに電話まで何度も止められる危機を乗り越えた女房には頭が上がらない。
そんな時間流れつつ、元祖おぼっちゃまキャラの父親の勘当も気づいた時には溶けていた。
毎年の誕生月には沖縄の親戚たちとの触れ合い楽しむ好爺さん&好婆さん。ただし孫たちには気取ってグランパ&グランマと呼ばせていたあたりは微笑ましいエピソード。
その後の人生振り返ってみると・・・
気がつけば宮古島に縁ある人と家庭を持つこと31年目。二人息子は大阪&福岡ですでに自立した社会人。
令和元年から三名連続して人生初の出来事(肉親の看取り)を経験致。その過程において、まさしく邂逅ともいうべき禅宗(臨済宗)の若き僧侶との出逢い。
新たな出逢いをきっかけに、勝手連として、『沖縄と日本各地の街歩き、天中和尚勝手に応援団』YouTubeもスタート!令和の年号が活動履歴になって来ている。
令和5年新年の行動目標は、
まず日本各地の友人知人を訪ねて旧交を温める
そのための行動指針は
『旅(たび)は道草(みちくさ)世(よ)を照(て)らせ』
2月に偶然訪れた神戸市須磨区須磨寺貫主にお眼通し叶い、『島守の広場(最後の沖縄県令=島田叡さん生家跡地の顕彰広場)』を日本全国に伝える目標を追加。
旅では陽のあたる(有名な)観光地だけでなく、狭い路地裏や主要道から離れた山道や海沿いならばときにより車両通行できない場所にも飛び切りの発見や衝撃的な出逢いある。
日向(ひなた)ばかりではなく、日陰にも同じように気配り目配りする、即ち時空を超えて「情けは人の為ならず」精神持ち続けることこそが大切であるをモットーに生きている。
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