過ぎたる無難はなお無難ならざるがごとし
ボーダーの服がすごく好きでよく着ています。ボーダーが好きな理由をよく聞かれるのですが、それは本当にシンプルで、「無難だから」です。いろいろなものに合わせやすいですし、何より場違いになることがほぼありません。前は私服だけボーダーだったのですが、仕事でもビジネスカジュアルが認められはじめたので、状況に拍車がかかっています。今となっては冠婚葬祭と謝罪会見以外ならだいたいボーダーを着ればいいんじゃないのという気がします。しかし一方で、ボーダーばかり着て過ごすことによって、キャラクター性がボーダーに乗っ取られている感覚があります。ボーダーばかり着ている人間ということで職場の人にも認知されてしまいましたし、ついこないだOutlookの写真もボーダーにしてしまいました。ボーダーじゃない服を着ると、「今日はボーダーじゃないのね」と言われるようになっています。ここまでくると、無難だからという理由で着ているボーダーに、なんらかのメッセージがこもってしまっているな、と思います。わたしは、この「無難への強い志向」というメッセージがこもっていることもコミでボーダーの服が好きである、というところまで来ていますが、このように、「無難を求めすぎると、もはやそれは無難ではなくなる」という状態はあるように思います。
わたしの人生は無難でありたいという欲求が強いです。それでいて、逆張り意識も強いという矛盾した状態です。なんというか、この「無難」というものが、世間に対する逆張り意識の表れとして機能している、とすら言えるかもしれません。世間の人は毎日いろいろな服を着てコーディネートを楽しんでいるのに対して、自分はさながら無課金アバターのように毎日同じような服を着ている、ということに愉悦を感じているように思うのです。このことは、「無難」なことかというとまるでそうではないと思います。本当に無難な人なら、ボーダー以外にもたくさんの無課金アバター的な服装を持ち、それをローテーションさせることで、自分の服装からメッセージ性を抜くことに成功するはずなのです。そうではなくボーダーの服に意味を生み出してしまった時点で、それは無難ではないのです。それほどまでに無難を求めていると言えます。
わたしの無難への欲求としてもう一つ大きいものがあります。それは、ずばり「結婚」です。結婚して子どもがいるという状態は、わたしにとってこの上ない「無難」なのです。これはニュアンスが超難しいのですが、「結婚するのが普通!これは人生の至上の幸福でそうでない人は不幸!」ということではありません。これはどちらかというと、大きなこだわりが無いからこそ安直に大勢に乗っかりたいという卑怯な願望です。多様性の認められる世の中ではありますが、それでも所帯があるということのもたらすメッセージは大きいものがあるのが実情です。両親や親戚、会社の人、友人など、そして自分自身に「無難な人生だ」と思ってもらいたいのです。しかしながら、ここでも逆張り意識が邪魔をします。その過程に存在する、「恋愛」というものがどうにも素晴らしいものに思えないのです。なぜあんなに多くの人が恋愛に駆り立てられるのかがわかりません。また、恋愛というのは「無難」の真逆に位置するものではないかと思うのです。恋愛は人間関係に起きる重力場の歪みみたいなものじゃないかと思うことがあります。当事者の時間の感覚を早めたりおそめたり、周囲を巻き込んでコミュニティをぐんにょりさせたりなどがあります。そういったものはなければないほど無難ではあるんじゃないかと思うのです。わたしはその無難さを求め続けた結果、この年齢まで恋愛経験がほとんどないような、無難ではない、なんらかのメッセージ性を孕む存在になってしまいました。無難さを求めすぎた結果無難ではなくなるというのはこういうところにもあると思っています。
ボーダーの服はユニクロや無印良品でたくさん売られているので、手に入れる過程も十分に無難です。しかし、結婚する人の多くは人生のパートナーたりうる人を恋愛の過程によって見つけていくものと思います。したがって、無難を求める過程で無難ではないところを通らなければなりません。無印良品に「伴侶」が売られていればどれだけ楽でしょう。これは無難を志向する人間にとって厳しい現実です。どうにか運良く、同じく無難を志向する人間と出会って、無難な人生を作り上げていく方法はないものかなと思っています。おそらくそういうやり方があったとして、それで伴侶を見つけることはきっと無難なやり方ではないのでしょう。ですが、それによって生じるメッセージを身に纏って暮らすのは、きっと大いなる愉悦だと思うのです。