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怒りの瞬発力
わたしはあんまり怒ることがありません。特に、人生の中で怒鳴るということをした覚えがありません。怒鳴れる人は自分にないものを持っていてすごいと思います。怒り機能に不全がある状態は健全でないよなあ、と思います。
怒鳴ることができる人が持っているのは、怒りの瞬発力だと思います。怒りのエネルギーを一気に高めてその場で爆発的に炸裂させる力を持っているということです。わたしの場合これができないのです。頭の回転が遅いというか、自分が不当な目に遭っている、理不尽を浴びている、という時に、それを認識するのに時間がかかるのです。わたしは怒りという感情がないわけではないですし、怒りのエネルギーを持っていないわけでもないです。が、その反応速度が遅いのです。反応速度が遅いとどうなるかというと、溜まった怒りのエネルギーは発散させる場所を失い、メンタルを煮込んで溶かしてしまうというわけです。じわじわとあとから腹が立ってきて、言うタイミングがないまま時間だけがたち、結局なあなあのまま終わってしまうわけです。
怒りをあらわにしないことには、良くないことがもう一つあります。それはナメられるということです。理不尽な要求に対して怒らないということは、概して、理不尽な要求を受容しているというふうに捉えられます。そうすると、相手にとっては理不尽な要求が普通になってしまい、以降の対応も理不尽なままであり続けることになるのです。自分一人だけならまだいいのですが、背後に味方がいる時は、味方にまで理不尽が降りかかってしまうので、これだけは避けねばなりません。ですから、自分が将来部下を持った時のために、怒りの能力は会得しておかないといけないのだろうと思っています。
一方で、理不尽への抗議の手段として、持っているのが果たして「怒り」でいいのか?という疑問は残ります。怒鳴り声が聞こえると、グループ内の生産性が下がるという統計があったような気がします。頭に血が上った状態で議論を交わすと、相手を圧倒することはできるものの、第三者によって客観的に見られたときに不利になる可能性もあります。怒りのカードをわざわざ使わなくても、理性的な対話ですべて事が済めば、それに越したことはないんだろうな~と思うのです。怒りという恐怖によるコントロールではなく、論理によるコントロールができるのが仕事や家庭の場においては一番いいのだろう、と思います。
そうは言いつつも、恐怖でコントロールしようとする人が組織に一人でもいる場合、結局恐怖が勝ってしまうというのが現実だと思います。恐怖に対抗するために上司に頼るにしても、そのときに上司が使うカードも「恐怖」です。やはり人に何か言うことを聞かせるためには、必要なのは「権力」であり、「権力」を支えるのは何かしらの「恐怖」である、ということはこの世の真理の一つなのかもしれません。何とかあらがう方法は、ないものですかね。この国のどこかの職場の末端で、いつもそんなことを考えています。